真珠湾に散った青年、「軍神」から「戦犯」扱いに 妹は広島で被爆

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戸田和敬
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 「両親様の長生きをお祈り申し上げます」。そう記した1通の手紙が、中国山地の山あいの小さな建物に収められている。80年前、ある青年が家族に宛てたものだ。日付は1941年12月7日。翌日、旧日本海軍の「特殊潜航艇」に乗り込み、ハワイ・真珠湾での奇襲攻撃で25歳の生涯を閉じた。戦時中、「軍神」と呼ばれたが、素顔は、海外に憧れる一人の若者だった。

 「未曽有の大国難を打開すべく、決死隊の一員として出発することになりました」「報国にて殉ずる覚悟です」

 若者の名は上田(かみた)定(さだむ)さん。広島県北広島町にある「遺品館」に、色あせた5枚の便箋(びんせん)に鉛筆で書かれた手紙と、ふちが破れた封筒が残されている。上田さんの遺品を収めている建物で、おいの賢治さん(66)が守っている。上田さんの死から80年がたち、「『軍神』の家だったことは、地域でも知られていない」と語る。

 上田さんは1916(大正5)年、農家の長男として生まれた。友人一家が米国本土やハワイに移民したこともあり、海外への憧れを深めた。中学を卒業すると、海軍に入隊した。

 海軍は真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇5艇での攻撃を計画した。魚雷2本を備えた小型の潜水艇で出撃する作戦で、上田さんも乗組員に選ばれた。部隊は41年11月18日、広島県呉市から真珠湾に向かった。

 42年3月になって、軍は上…

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