新聞から天気予報が消えた 国賊と呼ばれた予報官が生き抜いた戦争

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武田啓亮
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 「直チニ全国気象報道管制ヲ実施スベシ」――。太平洋戦争が開戦した1941年12月8日、「敵に気象情報を利用させないため」として、新聞やラジオから天気予報が消えた。当時、東京・大手町にあった養成所で気象を学んでいた若者は、何を思ったか。

 坂根教●(もんがまえに貴)(のりみち)さん(100)は、朝食のみそ汁をすすっている時、ラジオで開戦を知った。「最初に感じたのは、『まさか、なんでアメリカと』という驚き。それが、華々しい戦果報告を聞くうち、奇妙な高揚感に変わっていった」。80年前の12月8日のことだ。

 当時、現在の東京都千代田区大手町にあった気象技術官養成所(現気象大学校)で気象学を学んでいた。京都府舞鶴市出身。旧制中学時代に、現地の国民学校の校長になった父親とともに朝鮮半島南部の馬山という町に移り住んだ。勉強は得意だったが、大学に通う経済的余裕はなく、「国費で数学や物理、英語が勉強できる」という理由で養成所を受験した。卒業後は中央気象台(現気象庁)に勤務し、国内外を回りながら、様々な気象現象を観測、研究する未来が待っているはずだった。

 品川の寮で開戦のニュースを聞いた朝。東京駅から大手町まで、通りを歩く人々はいつもより足早で、街全体が慌ただしく感じた。すれ違う人の表情もどこか興奮しているように見えた。学校に着くと、開戦の話題で持ちきりだった。

 「天気予報が無くなっても、気象観測や研究そのものは無くならないはずだ」「兵隊に取られるかもしれないぞ」。そんな学生たちの不安をよそに、授業はこの日も、その後も続いた。

 「無謀な戦争を始めた」という気持ちは薄かったという。「最初に真珠湾で勝ってしまったのがまずかったね。『もしかしたらやれるんじゃないか』と。私を含む当時の日本人は、アメリカの技術力や工業力について、何も知らなかった」

「敗戦」を意識したのは…

 坂根さんが上京したのは41…

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