真珠湾攻撃で捕虜、伏せられた存在 伊方に石碑建立「仲間と眠れる」
太平洋戦争中に海軍の特殊潜航艇の訓練場があった愛媛県伊方町に8日、真珠湾攻撃に参加した乗員10人を紹介する新たな石碑ができた。石碑には、乗員の一人で米軍の捕虜になったために戦時中にはその存在を伏せられた、徳島県出身の酒巻和男さん(1999年に死去)が加わっている。開戦から80年の節目の日に、酒巻さんは戦死した9人の仲間とようやく再会を果たした。
「父はここに来たら同胞の声が聞こえると言っていた。9人の仲間と一緒に眠れることを喜んでいると思う」。酒巻さんの長男で「史跡 真珠湾特別攻撃隊の碑」の除幕式に参加した潔さん(72)は、伊方町の三机(みつくえ)湾に面した須賀公園でしみじみと語った。
三机湾には終戦まで海軍の特殊潜航艇の訓練基地があった。石碑の隣には真珠湾で戦死した乗員9人をたたえる「大東亜戦争九軍神慰霊碑」がすでにある。
酒巻さんら真珠湾特別攻撃隊の10人は、三机湾で訓練を重ねたのち、2発の魚雷を備えた小型潜水艦「甲標的」に乗り込んで出撃した。攻撃には5艇が投入されたが、酒巻さんをのぞく9人が戦死。軍は捕虜となった酒巻さんの存在を隠したうえで、亡くなった9人を「九軍神」としてたたえて戦意高揚に利用した。
米国の収容所を転々とした酒巻さんが帰国したのは、戦後の1946年。その後はトヨタ自動車工業に入社してブラジルトヨタの社長などを歴任し、81歳で亡くなった。生前に「俘虜(ふりょ)生活四ケ年の回顧」(東京講演会、47年)、「捕虜第一号」(新潮社、49年)という2冊の手記を残し、作家山崎豊子の遺作「約束の海」のモデルにもなった。
今回の石碑の建立には、酒巻さんの弟の友人で徳島県美波町在住の元高校教師青木弘亘さん(80)が力を尽くした。青木さんは昨年、すでに絶版となっていた酒巻さんの手記2冊を復刻。今回は少額の寄付を募る「クラウドファンディング」を使って石碑建立への協力を呼びかけた。
この日除幕した碑は高さ約2・2メートル。地元産の青石に60センチ角の陶製のプレートが掛けられ、酒巻さんを含む乗員10人が出撃前に撮った記念写真が焼き付けられている。碑を建立した有志らは歴史の事実だけを伝えたいと、あえて「史跡」という文字を刻んだ。
青木さんは「世界の恒久平和のために、戦争の事実をここ三机から発信したい。子どもたちの平和学習に役立ててほしい」と話している。
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青木さんが酒巻さんの過去の著書を編集・復刊した「酒巻和男の手記」の問い合わせ先は、イシダ測機(088・625・0720)。(藤家秀一)
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