特攻の立役者、黙考の戦後 「必死必殺ノ戦」から酌むべき教訓

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編集委員 駒野剛
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記者コラム「多事奏論」 駒野剛

 雨が降りしきっていた。広島県呉市の吉浦地区は丘陵が海岸近くに迫り、頂上付近に墓が林立していた。坂を上るが滑りやすく、一部、道すら失われているため、案内されなければたどり着けなかったろう。

 「黒島亀人之(くろしまかめとの)墓」。世間から隠れるように墓石はあった。旧海軍兵学校があった江田島の方を向いていた。墓の主の母校だ。

 卒業後、現場暮らしの長い黒島が国運を左右する任務についた。1939(昭和14)年10月、海軍の主力、連合艦隊の先任参謀になったのだ。その2カ月前、艦隊司令長官に山本五十六が就任していた。その下で黒島は、80年前の真珠湾奇襲、さらにミッドウェー海戦の作戦案を練り上げる。

 空母攻撃機で真珠湾の米艦隊を強襲する作戦は、長距離航海の危険などから反対が多かったが、山本が実現にこだわった。

 黒島は常識外れの発想ができるからと具体化を任された。二人は米側に大損害を与えて士気を喪失させることを狙った。確かに戦果は上がったが、最後通告の交付が攻撃後になる不手際もあり、米の反感と戦意を一気に高める完全な逆効果となった。

 そもそも不意に攻撃された側がどう思うか、想像力が欠落していたように思える。

 ルーズベルト米大統領は議会で「卑劣極まりない仕打ちで、決して忘れられることのない日」と非難。激した議会は即座に対日宣戦布告を承認し、以後、米国民は日本屈服に総力を注いでゆくのだ。

 43年4月、山本はソロモン諸島上空で撃墜死するが、黒島の戦はなお続いた。

 防衛庁防衛研修所戦史室が編…

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