国内有数の渡来地、谷津干潟の保存に尽力 環境活動家・森田三郎さん

小木雄太
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 船橋市の海岸近くで育った。テレビもゲームもなかった70年前は、干潟が遊び相手だった。潮が引けばカニや貝を捕まえ、毎日のように泥だらけになった。

 市川市で新聞配達員をしていた1974年。久しぶりに見た干潟は一変していた。広大だった干潟は埋め立てが進み、住宅地などに囲まれた約40ヘクタール(習志野市の現・谷津干潟)だけに。そこに家庭ごみや流木が山積し、異臭を放っていた。

 一人でゴミ拾いを始めた。新聞配達が終わると、冷蔵庫や自転車といった粗大ごみにロープをくくりつけ、一人で泥から引っ張り上げた。

 だが、地域の目は厳しかった。干潟の異臭に悩み、一部の地域住民は埋め立てを望んでいた。行政にごみの回収を拒否され、土手に置いたままになったゴミやヘドロ入りの土囊(どのう)も、当然、住民に嫌がられた。自ら置いた投書箱「干潟通信箱」には、批判的な意見ばかり集まった。

 「谷津干潟愛護研究会」を設立し、元々埋め立ての反対運動をしていた「千葉の干潟を守る会」や「野鳥の会」と連携した活動を展開。76年、習志野市議会は干潟の保存を否決したが、ごみを市役所に持ち込んで回収を直談判し続けた。渡り鳥の卵を数える繁殖調査、干潟の循環を良くするための水路整備の交渉……。干潟の重要性を訴える活動は続いた。

 79年、初めて地元の主婦がゴミ拾いを手伝うように。1人でゴミ拾いを始めてから5年が経っていた。

 80年、県が干潟の保存の希望を表明した。地域住民らによるクリーン作戦も始まった。81年、干潟のゴミ拾いに集中するため、新聞販売店を退職し、干潟近くに住んだ。84年、市が埋め立て計画を撤回。93年、谷津干潟はシギ・チドリ類の国内有数の渡来地としてラムサール条約に登録された。

 この間、周囲の後押しもあり、政治の世界へ。87年に習志野市議選でトップ当選。市議3期、県議2期を2007年まで務めた。

 「こうと決めたら諦めない頑固な人。口数は少ないけど、周りが勝手に応援しちゃうような魅力があった」。活動をともに続けてきた中村容子さんは言う。

 直情さが批判されたこともある。県議時代の2000年、習志野市役所の市長室に谷津干潟のごみを散乱させ、その後、罰金30万円の略式命令を受けた。「なぜ、どうして、ごみがこんなに谷津干潟にあるのかという実態を、とにかく市に知って欲しかったからだ」。県庁で開いた謝罪会見ではこう語った。

 県議引退後も、干潟のゴミ拾いをやめなかった。生涯独身だったが、中村さんは「森田さんは干潟と結婚したのよ」と笑う。

 今では谷津干潟は、多くの水辺の生き物が息づき、60種類近くの水鳥が訪れる。ただ、柵で囲まれ、中には入れない。昔遊んだ時からは大きく変わった干潟を、寂しそうに見つめる時もあった。数年前までゴミ拾いを続け、晩年は「ここまでやったから、おれはもういいかな」とつぶやいたという。(小木雄太)