高校サッカーの歴史開いた大阪朝鮮、選手権3回出場でも部員減のわけ
高校サッカー100回 関西の記憶(中)
1995年。この冬で開催100回を数えるサッカーの全国高校選手権が、歴史的な転換点を迎えた。
学校教育法上の「各種学校」にあたる外国人学校は、長らく公式戦に参加できなかった。だが、高体連が94年に高校総体への門戸を開放。その1年後、日本サッカー協会も翌年度からの選手権出場を正式に認めた。
今年11月中旬、大阪朝鮮高級学校(大阪府東大阪市)のサッカー部を訪ねて驚いた。激戦区・大阪代表として全国選手権に3回出た面影はほぼ無い。
グラウンドは土。それもラグビー部と共用で、部員は1年生10人、2年生が3人……。4人の3年生はその月いっぱいで引退した。「ここ2、3年で急にガクッと減った」と、総監督の康敏植(51)はこぼす。
北朝鮮でサッカーは国技という。日本の植民地支配下にあった戦前は選手権に参加し、1928年に平壌崇実が頂点に立った。戦後の55年には、都立学校扱いだった東京朝鮮が選手権に出場したこともある。東京朝鮮はその後は公式戦から遠ざけられたが、60~70年代にかけて帝京(東京)、習志野(千葉)など強豪から対戦を熱望された。負け知らずで、「幻の日本一」と言われた。
そうした素地も大きかったのだろう。大阪朝鮮も99年度にはひのき舞台へ。高校総体に初出場を果たし、MF梁勇基(現J1鳥栖)らが帝京に善戦した。
悲願だった全国選手権のピッチに初めて立ったのは、2000年の12月31日。第79回大会だった。当時コーチだった康は「選手権はお正月に何か食べながらテレビで見る風物詩だった。出られるなんて夢にも思わなかった」と振り返る。
「チャルハラ(頑張れ)! イギョラ(勝て)!」
初戦で敗れたが、全国から集った「同胞」の大歓声を受け、高校サッカー史に新たな一ページを刻んだ。
経済的理由で日本の高校へ
現監督の安泰成(34)が主将だった05年度の第84回大会では8強進出を果たし、ファンに関西の強豪として認識されるようになった。だが、翌年度の3回目の出場を最後に全国の舞台からは遠ざかっている。
在日コリアンの生徒らが通う…
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