京都画壇の歴史に埋もれた女性画家 その生涯を掘り起こしたのは…

有料記事

西田理人
[PR]

 近代京都画壇の忘れられた女性画家・六人部暉峰(むとべきほう、1879~1956)。一時は上村松園とも肩を並べたという知られざる俊才の画業を掘り起こす特別展がこの秋、京都で開かれた。企画したのは学芸員ではなく、一般の行政職員。自ら作品を買い集め、文献をたどり、論文まで執筆して開催にこぎつけた。

自腹で作品を落札、休日に文献調査

 京都府向日市文化資料館で開かれた「日本画家・六人部暉峰の世界」(11月6日~12月5日)は、暉峰作品37点を中心に、書簡や写真などを並べて女性画家の生涯をたどる特別展だった。同館に勤務する市職員の里見徳太郎さん(45)が企画した。

 暉峰との「出会い」は5年前。子育て支援の担当課から同館に着任した時、何げなくめくっていた館内の古い資料に暉峰の名前を見つけた。向日神社の神官を務める六人部家の出身で、日本画の巨匠・竹内栖鳳(せいほう)に師事していたらしい。ただ、その画業を今に伝える伝記や作品集が一切見当たらない。いったいどんな人物だったのか。気になって調べてみることにした。

 まずは作品を見なければと、ネットオークションを渉猟して自費で落札。文献調査や聞き取りは、休日を使って進めていった。すると「その才能を評価されながらも、訳あって20代前半で画壇から身を退くことになった生涯が見えてきた」。

 10代前半で栖鳳に入門した暉峰は、若くして男性優位の画壇で実績を積み上げた。17歳の頃に描いた代表作「白川殿攻落」が、当時「日本の絵画展で最大」と称された1897年の第1回全国絵画共進会で女性画家としての最高点を得たほか、内国勧業博覧会やパリ万博の出品作家にも名を連ねた。

 だが、栖鳳との間に7人の子をもうけた暉峰は、そのキャリアが10年に満たないうちに表舞台から引退。神奈川・湯河原の住居兼アトリエで、公私にわたって栖鳳を支え続けることになる。活動期間の短さなどから、後に画家としての業績が顧みられることは少なく、やがてその名は歴史の中に埋もれていった。

見過ごされてきた女性画家たちの存在

 館内の催しで、こうした暉峰…

この記事は有料記事です。残り474文字有料会員になると続きをお読みいただけます。
今すぐ登録(1カ月間無料)ログインする

※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません。