新垣渚さんが今かみしめる亡き恩師の言葉 「上めざせ」涙の夏にも

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 福岡ソフトバンクホークスの投手だった新垣渚さん(41)は沖縄で野球を覚え、大学、プロと福岡で磨き、引退後はNPOホークスジュニアアカデミーで福岡の小学生たちに野球を教える。

 「楽しい、また野球を習いに来たいと言ってもらえることがとても心地よく思います。しかし、プロ野球選手のような派手なプレーに憧れがちで、こう諭してみます。『確実にこなす基本動作が速く見えるだけだよ』と。結局、野球がうまくなるためには、基本を身につける以外はないということです。野球がうまくなって、もっと楽しくなってほしいと見守っています」

 高校時代、沖縄水産でエースとして活躍。野球の基礎をつくったのは、監督だった栽弘義さんとの出会いだ。

 「厳しい監督でした。『一緒に野球をやろう』と朗らかな表情でグラブを渡されましたが、入部後は険しい表情に一変しました。投手として期待されていたので、ひたすら走り込みのトレーニングが課されました。油断すると、遠くから『おーい、渚』と。その一言で緊張感が走りました。思い出すたびに背筋がピンと伸びます」

 「当時は珍しかった器具を使った筋力トレーニングも勧められました。高校最速の151キロを記録できたのも、そのおかげです。監督室には野球哲学やトレーニングケアの本が山のようにありました。野球に対しての並々ならぬ情熱を感じました。チームにはトレーナーがいなかったので、監督が選手の体の状態を確認していました」

 ただ、順調に野球人生を歩んできたわけではない。子どものころの大けがにずっと悩まされてきた。

 「やんちゃだった小学5年生のとき、自転車をこいでいたら転倒してしまって、右足を強打し、しばらく起き上がれなかったんです。足をひきずって帰り、翌日以降も少年野球の練習に出かけました。激痛が走るようになったので、病院で診察してもらったら、すねの骨が折れていました。30センチの金属プレートを入れる手術をし、その後も左右の足を骨折する事態となり、中学に進んでも十分に走ることもできず、野球をあきらめることも考えました」

 野球を断念し、ボクシングの道を模索することも考えた。

周囲の勧めもあり、ボクシング強豪校の願書を取り寄せた新垣さん。ところが…。このあと、平成の怪物・松坂大輔さんとの対戦についても語ります。

 「身長が高く、腕も長いので…

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