テストジャンパーは銀メダリスト 逆転「金」生んだK点越え

高億翔
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 1998年、冬の長野。日本の金メダル5個の中でも、見る者に強い印象を残したのが、スキージャンプ、ラージヒル団体の戦いだった。裏で支えたテストジャンパー25人の姿は、後に、映画「ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~」で描かれた。

 ストーリーの主人公で、今は会社員の西方仁也(53)は昨年11月、下高井農林高校(木島平村)にいた。ジャンプ競技の話を交えながら、母校の後輩約150人を前に講演した。

 野沢温泉村出身の西方は、日本を代表する名ジャンパーだった。1994年のリレハンメル五輪に出場し、ジャンプ団体で銀メダルを獲得。次は金、しかも舞台は地元・長野。最高の世界一を夢見たが、スランプから成績が振るわず、代表入りを逃してしまった。

 代わりに打診されたのが、競技の安全性を確認するため出場選手に先立って飛ぶ「テストジャンパー」だった。4年前からの「落差」に、「自分が出なくてもいいのでは」という迷いや、自分へのふがいなさが胸中を交錯したという。

 この時、自分たちテストジャンパーがメダルの行方を左右することになるとは、思っていなかった。

 1998年2月17日。大観衆が詰めかけた白馬村のジャンプ台は大雪だった。競技当日の心境を、西方が昨秋、取材に明かした。まだ「テストジャンパー」という役回りに葛藤を抱えていたという。出場選手が1本目のジャンプを飛び始めても、素直に日本選手を応援できなかった。「嫉妬していたのかも」。苦笑しながら振り返った。

 競技開始前、控室にいた自分に近づいてきたのが、日本の3人目で飛ぶ予定の原田雅彦。同い年であり、同じ世界で戦った友人であり、代表の座を争ったライバルでもあった。不意に声をかけられた。

 「手袋か何か、貸して。アンダーシャツでもいい」

 真意が分からず、うっかり用意し忘れたのかと思った。着ていたシャツを脱ぎ、原田に手渡した。各国の選手が1本目を飛び始める。スタートゲートに向かう原田が、自分たちの控室近くにあるエレベーターから出てきた。その紫の襟元に、視線が止まった。

 ついさっきまで自分が着ていたシャツだ。一瞬、目が合った。原田は、何か決意を秘めているような表情を浮かべていた。その時の心境を、西方は、はっきりと覚えている。

 「『一緒に戦うんだ』っていう原田の気持ちが、何となくそこで分かって、うれしかった」

 しかし、1本目を終え、日本はまさかの4位に沈んだ。原田の「失敗ジャンプ」が響いた。ジャンプ直前に突然雪が強まり、助走スピードが上がらない。「雪が助走路に積もったせいで、スキーが滑っていないのが分かった」と西方。その日の朝日新聞(夕刊)は原田の1本目の助走を「速度は87・1キロ。他の選手よりも2、3キロ遅い」と報じた。原田はK点に遠く及ばない79・5メートルに終わり、1本目を終えた時点で日本は首位から13・6点差。さらに悪天候で競技打ち切りとなれば、日本は金はおろか、メダルすら逃してしまう事態に陥った。

 2本目開始までの間、日本の2人目のジャンパー、斎藤浩哉が西方に近づいてきた。同じ雪印乳業のチームメートは、真剣な表情で「飛ばなきゃダメなんですよ」とつぶやいた。この時、「せめてメダルを取らせてあげたい」と西方の心に火がついた。

 テストジャンパーの出番が来た。1人でも転倒していたら競技打ち切りの可能性があった。25人目、最後に飛んだ西方は「とにかく大きなジャンプを」という一心だった。雪で視界が遮られる中、K点を越す123メートルの大ジャンプをやってのけた。「もうちょっと、いければ良かった」といたずらっぽく笑って振り返るが、日本の逆転優勝に向けて十分な仕事だった。

 競技は再開。日本の1人目、岡部孝信が137メートルを記録すると、テストジャンパーの控室は大いに沸いた。

 「すごいな」。西方の胸中には、さっきまでとは明らかに違う感情が生まれていた。「『大会をつないだ』と心から思える瞬間だった」

 3人目の原田。控室の横を通りながら、「よし、行くぞ!」と雄たけびをあげた。「がんばって!」と控室から励ます声。直後、原田の137メートルの大ジャンプが生まれ、4人目の船木和喜が金メダルを決めた。

 西方は、あの時の原田の雄たけびを忘れられないという。4年間めざした夢舞台に出られない、自分たちの思いを背負うという「証し」のようにも感じた。

 「2本目はお祭り騒ぎ。こういうの良いよなと思いました。94年以来、もやもやしたものを晴らしてくれた。自分もバーに座って飛ぶ感覚で、一緒に戦えた。最後には100%の応援ができました」。日本に夏冬通算100個目の金メダルがもたらされた。=敬称略(高億翔)