「生きていて」あの日バイクで走った青年監督 甲子園で確信したこと

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山口裕起
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 雪が舞う静岡・日大三島高のグラウンドに永田裕治監督(58)の大きな声が飛ぶ。

 「もっと声出るやろ。寒さに負けとったらあかんで」

 1月6日、野球部員49人がフリー打撃をしていた。

 スイングに熱がこもる。

 「ええ顔や。子どもたちが楽しそうに野球をやりよるでしょ。この姿を一番大事にして、やってきたんです」

 永田さんは目を細めた。

 ながた・ゆうじ 兵庫県西宮市出身。報徳学園高3年時に夏の甲子園で優勝。90年から同校コーチ、94年4月から監督。17年に退任後、18、19年は高校日本代表監督を務め、20年春から日大三島の監督に就いた。保健体育科教員。

 27年前の経験が、指導者としての「原点」になっている。

 1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が起きた。当時31歳。母校の兵庫・報徳学園の監督に就任して1年も経っていなかった。

 高校が所在する兵庫県西宮市では1146人(震災関連死及び市外で亡くなった市民12人を含む)が犠牲になった。

 永田さんは、学校から数百メートル離れたマンション5階に妻と3歳の長男、1歳の長女と4人で住んでいた。跳び起き、家族が寝ている部屋に向かうと、3人に覆いかぶさるように本棚が倒れていた。

 「倒れるときに本棚の扉がぱっと開いたから、つぶされずに済んだ。奇跡的に無事だった」

 すぐに野球部員たちの顔が脳裏に浮かんだ。

 避難場所に最適だと考え、自…

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    中小路徹
    (朝日新聞編集委員=スポーツと社会)
    2022年1月17日9時12分 投稿

    【視点】 スポーツの楽しみは命と衣食住の後にあるものです。阪神大震災や東日本大震災といった大災害時に、被災地の選手や指導者が「スポーツなんかやっていていいのか」と悩んだことは、多くリポートされています。  一方で、避難所で子どもたちと一緒にボール