新沼謙治さん、ほれちゃったよ博江ちゃん 大震災の年に逝った妻

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聞き手・河合真美江
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 岩手県大船渡市出身の歌手、新沼謙治さん(65)が妻の博江さんをがんで亡くしたのは2011年9月。東日本大震災の年だった。バドミントンの元世界チャンピオンの博江さんとは特技のバドミントンが縁で出会い、2人の子どもに恵まれた。最愛の妻を失い、震災で傷ついたふるさとを思い、歌ってきた新沼さん。10年余りの喪の旅をたどってもらった。

 ――病気がわかったのは10年秋だったそうですね。

 ちっちゃいいぼが首のところにあるのよねって。みてもらったら安心だよねと笑いながら大学病院に行った。帰りに寿司(すし)でも食べようって。そうしたら、余命1年と言われた。それまで笑って過ごしてきた人生が過去のものになった瞬間。そこからは常に心が晴れることがない、不安な毎日が続くわけだよね。どこの臓器から広がったのかがわからない原発不明がん。手術をして、抗がん剤治療をどうしようと考えている間に病気が進行した。旅立った後、自分を責めました。間違ったなあと。

 ――闘病のさなか、東日本大震災が起きました。

 女房の病院へ行く途中、首都高速を走っていたらハンドルをとられた。パンクしたと思った。高速が波うっていた。揺れが長いんだ。どこが震源地なんだ? 女房の病室にたどりついたら、テレビで津波の映像が……。涙が止まらなかった。「全部流されちゃったねー」って博江ちゃんと。

 大船渡結婚式をやったんです。ちっちゃい商店街のみんなが「謙治さん、博江さんおめでとう」ってショーウィンドーに紙をはってくれていた。卒業した幼稚園のみんなが手を振ってくれた。あの街が……。結婚式をしたホテルも被災しました。

バドミントンの縁で結ばれ 突然の病気と大震災

 ――なれそめはバドミントン。1981年にユーバー杯争奪世界女子団体バドミントン選手権が東京で開かれて、見にいった会場で出会ったそうですね。

 湯木(博江さんの旧姓)さんはテレビの解説をしていた。名刺をいただいて、練習にお越し下さいと言われた。真に受けて行ったんです。「勝負お願いします」ってやっても、1本もとれない。悔しくて、また来ますと言って、何年も通いました。

 ――86年に結婚された。

 情が深くて、裏切らない。この人なら信じられると思った。世界チャンピオンですよ。到達する人は言われてやるんじゃなくて自分から目標に向かっていくんですね。女房は言ってました。「正月にみんなが餅を食べているときに走ってないと勝てないよ」って。友だちには俺のことを「うちには子どもが3人いる。大きな子どもが一番手がかかる」と言っていたそうですけど。

 ――震災のただ中、看病されました。

 病気のことはだれにも言ってなかった。田舎のおふくろから「大変だよ、こっちへ来てみんなを励ませ」と再三電話がかかる。それで、おふくろには打ち明けたんです。そうしたら、おふくろは言った。「花屋で花を買っても全部が育つわけじゃない。枯れてしまう花もある。しょうがない。人も花と同じ運命なんだ」。その一言で励まされたね。

 夫を亡くした幼なじみの女性がいてね。「がんだってね、大変だね。私はわかるのよ」って心配してくれた。こういう時、一緒に泣いてくれる人がいるんだ。

 これは経験した人じゃないとわからないんだな。たいがいのことは年が教えてくれるんだろうけど、年じゃない。これは経験した人が先輩だなと思った。

 ――博江さんは気丈に闘病されたそうですね。

 おふくろが田舎から来た時、彼女は会わなかった。元気な私を思い出してほしい、この顔を思い出すとお母さんが悲しくなるって。最後まで相手のことを考える人だったね。

 弱音は吐かなかった。病院でも手すりにしがみついて歩いていた。前に進むことしか彼女は考えていなかったね。

山形にかかってきた電話 博江ちゃんとの別れ

 もともと明るい人で、だれからも相談を受けて的確にアドバイスできる。病院でも看護師さんたちの相談相手だったそうだから。

 博江ちゃんが七つ上で、結婚してもしばらく「湯木さん」て呼んでいた。2回ぐらいしかケンカしたことない。うちはいい家族ですよ。それは妻がつくってくれたもんだね。家でしょっちゅう話しかけてきた。

 彼女は言っていた。うまくいかない家庭って会話がないのよねって。それで、何かの時集まって会話すると、おまえそういうふうに思っていたのかってなっちゃう。会話って大事なのよって。哲学を持っていた。

 50歳ぐらいの時、俺が「バ…

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