第29回「香港の豚」だった私が催涙弾を浴びるまで バーの出会いで人生一変
連載「それでも、あなたを」香港編①
「大量のコショウを飲まされたような感覚」
それが、黄暁晴が催涙弾を生まれて初めて浴びたときの感想だった。
2019年6月、暁晴が、刑事事件の容疑者を中国に引き渡せるようにする「逃亡犯条例」改正案に対する反対集会に参加したときのことだ。
警察は香港議会周辺にいた民衆に、催涙弾やゴム弾を発射した。大きな音が一帯に響くなか、白い煙が立ちこめる。
暁晴は目が開けられず、呼吸もままならない。でも逃げなければ捕まってしまう。傍らで倒れ込んだ三つ上の彼氏、陳子軒を引きずり、必死になって現場を離れた。
ただ反対の声を上げただけなのに、なぜ。暁晴は無力感でいっぱいだった。
「港猪(香港の豚)」。豊かな暮らしを享受するだけで政治に無関心な香港人を風刺した言葉だ。
暁晴は、自分もそんな一人だと思っていた。
共働き家庭の次女に生まれた。子の意思を尊重してくれる両親のもとで、大きな苦労なく育った。海外留学もさせてもらった。
自分が反体制的な集会に参加するようになるなんて、かつては考えたこともなかった。
子軒と出会うまでは。
いつかこの人と…
16年の冬。暁晴は新界のバーで、勤務する宝飾店の同僚女性2人と飲んでいた。
店にいた男性3人組に、声をかけた。そのうちの1人が、子軒だった。
カラオケやダーツもある店内は騒がしかった。子軒とは生い立ちなどを話して連絡先を交換したものの、深い話をした記憶はない。
翌日、暁晴は仕事中に、携帯電話のメール受信音が何度も鳴るのに気付いた。見ると、20通を超える子軒からの自己紹介文が届いていた。
14年の民主化デモ「雨傘運動」に参加していたことや、社会福祉の仕事をしていることなどが記されていた。そして、暁晴を大みそかのデートに誘っていた。
出会ったことのないタイプの男性だった。生真面目な文面にも好感を抱いた。ショッピングモールであった新年のカウントダウンイベントに2人で参加し、交際の申し出を受けた。
20代だった2人は、ほぼ毎日、デートを重ねた。料理にうるさい子軒に合わせて選んだレストランで食事をし、街歩きを楽しんだ。
九竜半島の旺角で記録映画などを見た後、尖沙咀のバーで語り合った。週末は香港の離島までハイキングに出かけた。次第に互いの実家を行き来するようにもなっていた。
子軒は民主化運動を支持していたが、過激なものではなく穏健な運動だった。社会問題にも詳しかった。
暁晴は、そんな子軒にひかれ…
【視点】いろいろな観点から読める記事である。 大学生であっても、「デモに参加していた友人はわずかだった」という環境が19年春には存在したことは、14年の雨傘運動を経ても、当時はまだ運動参加が社会関係圏によって異なっていたことを示している。