(魂の中小企業)下請けの縫製会社、下町から宇宙船への夢

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 中小製造業の夢、それは自社ブランドをつくって消費者に販売することです。

 相撲の街、東京・両国。そこに「丸和繊維工業」というニットのシャツやジャケットなどをつくっている会社があります。

 1956年、肌着製造の会社として始まってからずーっと、最高の着心地を追求してきました。アパレルメーカーに評価され、下請け仕事を任されて業績を上げてきました。

 でも……。

 こんかいは、この会社の、自社ブランド開発への道をお届けします。主人公は3代目社長、深澤隆夫さん(61)です。

    ◇

 深澤家の長男なので、家業の後継者になることは、子どものころから意識していた。

 大学まで受験なしにいける私立小学校に入る。ソフトボール、野球。学業の成績は真ん中ぐらい。大学では経済学部にすすみ、ゴルフの同好会。バイトは街の便利屋さん。お客に頼まれたことを何でもした。

 両親のすすめもあって、丸紅で修業することに。繊維部門に配属され、4年目でサウジアラビア駐在に。日本の織物をサウジへ輸出するのが仕事だった。

 円高がすすんでいる局面だったので、輸出の仕事にとっては逆風だ。サウジで買う日本の生地が高くなったため、韓国やインドネシアからの生地も仕入れた。

 深澤は、世界を肌で感じた。

 3年ほどでサウジから日本に呼び戻された。東京の繊維部門に配属される。入社8年目のある日、頑健な父が体調を崩して初めての入院。そろそろ戻ってきてほしいと上司を通じて言われた。

 1991年、深澤30歳のとき、家業での仕事が始まった。

    ◇

 社員たちを見て、思った。

 〈みんなを幸せにしなくては〉

 そう心に誓った。

 丸和繊維工業は、アパレルメーカーからの指示を受けてニットのシャツなどをつくり、お客さんのブランドで納入していた。思いっきり下請けである。

 バブル崩壊後の長ーーい不況などで、繊維産業全体が、右肩下がり。家業も、右肩下がり。仕事の量を何とか確保しても利益につながらない。

 〈このままでは、ダメだ。従業員を幸せにするなんて、夢のまた夢だ〉

 深澤の頭の中は、いつも黄色信号だった。

    ◇

 90年代の終わり。危機感をいだいた繊維の下請け会社があつまった講演会があった。講師に活を入れられた。

 「自主独立したメーカーを目指さないと生きていけません」

 よし、行動だ!

 深澤は、自社ブランドを立ち上げるべく展示会に出展しては、業界の評価をあおいだ。販売力のなさを痛感する。

 石の上にも三年だと、3年間がんばったが、挑戦をやめた。あきらめきれず、また挑戦。2年間で、やめた。あきらめたら、丸和繊維は下請け企業で終わる。

 深澤は、3度目の挑戦を始め…

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