ソ連とは何だったのか あの「崩壊」から30年、大著で迫る全体像

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大内悟史
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 戦後、東西冷戦の一方の極となったソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の消滅から、昨年末で30年がたった。塩川伸明・東京大学名誉教授(ロシア政治史、比較政治)は大著『国家の解体』(東京大学出版会)を昨年出版して、全15共和国の現地新聞や政治家の証言などを駆使し、いわゆる「ソ連崩壊」の全体像を描いた。解体過程で浮かび上がったソ連の実体と、歴史的教訓について聞いた。

 1985年にソ連共産党書記長となったミハイル・ゴルバチョフは、87年ごろからペレストロイカ(改革)を次第に本格化させた。ソ連の影響下にあった東欧諸国に対して内政不干渉の方針が打ち出され、89年にはこれらの国々が次々と社会主義体制から転換し、議会制や市場経済の導入などが進んだ。冷戦終結に至る節目の一つとされる米ソ首脳によるマルタ会談、東西ドイツ統一といった世界史的な激変が続くさなか、91年12月にソ連という国家は消滅した。

 ソ連末期において、塩川さんは「異なる性格の二つの事柄が起きた」と指摘する。「一つは社会主義体制の行き詰まりを指導部自身が感じ取り、市場経済やリベラル・デモクラシーへと向かおうとする動き。もう一つは、ソ連という国家が解体してバラバラの独立国家が生まれる事態。この二つの出来事はきびすを接して起きたために同一視されやすいが、実はズレがある」というのだ。

 社会主義からの体制転換はゴルバチョフ時代の後期(89~91年)に徐々に進んだが、国家解体は91年末に一気に起きた。旧ユーゴスラビアなど一部の国を除けば、多くの旧社会主義国では政治・経済体制が変わっても国家は解体しなかった。ソ連でも、社会主義体制から離脱して新たな分権型連邦国家に生まれ変わる試みが91年半ばまで続いたが、それを一挙に断ち切ったのが年末のソ連解体だった。

 その過程に焦点を当てた『国家の解体』は3巻本で税込み4万円超。約2500ページの大著で描いたのは、ユーラシア大陸北辺を覆う巨大国家の持つ独自の構造と、その解体過程で起きた様々な動きの相互作用だ。ソ連は共産党中央を頂点とした連邦国家であり、現在のロシアやウクライナベラルーシ、バルト三国、中央アジアや南コーカサス(ザカフカース)諸国などの15共和国と、多数の自治共和国・州などの多層的構造で成り立っていた。背景には、1917年のロシア革命から22年のソ連建国に至る過程で掲げられた民族自決と反帝国主義の理念があった。

 「もともとソ連の共産党支配は外からのイメージほどの一枚岩ではなく、ゴルバチョフが改革を始めると内部の多様性が顕在化した。建前として認めていた共和国の主権の現実化を求める動きが強まり、連邦制に対する遠心力が働いた」

 中央が地方への統制をゆるめると、各共和国の共産党指導者たちは改革の進展と世論の高まりに押され、民族主義寄りの立場をとる傾向を見せた。ゴルバチョフの「ソ連政権」に対し、国内で最も大きなロシア共和国を権力基盤とするボリス・エリツィン(後のロシア大統領)の「ロシア政権」が対抗するという特異な構図も生まれた。

 「すべての共和国が一様に独立を目指していたわけではない。早くから独立論が強かったのはバルト三国で、現地の党指導部も大衆運動に歩み寄って独立論をとった。一方で、必ずしも独立を目指していなかったウクライナや中央アジアなどの共和国は、選挙改革や民族運動の高揚などをきっかけに、ソ連中央に対する自主性を強めた。さらにソ連・ロシア両政権の対立から漁夫の利を得ようとする形で、タタルスタンやチェチェンといったロシア内の民族地域の自治拡大要求も高まった」

 旧東側諸国の政治体制転換は、70年代の南欧や中南米諸国から2010年代の「アラブの春」にかけて起きた民主化の大きな「波」の一部との見方がある。だが、塩川さんは慎重だ。

 「ペレストロイカのおかげで…

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    佐藤優
    (作家・元外務省主任分析官)
    2022年1月30日14時7分 投稿

    【視点】 私は1987年8月から95年3月までモスクワの日本大使館に勤務していました。ソ連末期の知識人たちには、ポストモダン的な価値相対主義が浸透していました。ソ連体制に異議を申し立てるロシアの知識人は18世紀的な啓蒙の思想を用い、エストニア、ラト