「放射能」 娘に覚えさせなかった 原発内で働いたシンガーの葛藤
避難したシンガー・ソングライター牛来美佳さん
「放射能」という言葉は娘に覚えさせないようにしていた。「目に見えないバイ菌があるから、帰れないんだよ」。5歳の娘とともに、原発に近接する福島・浪江町から群馬に避難した元原発作業員でシンガー・ソングライターの牛来(ごらい)美佳さん(36)は、そう娘に言い聞かせてきた。「学校で放射能のことを言ったらいじめにあうかもしれない」。友人の子どもは、転校の理由が原発事故であることが知れ渡るといじめを受け、学校に行けなくなったという。
震災当日も、福島第一原発所内にある東京電力の関連会社で勤務していた。所内で働く人の放射線量を放射線管理手帳に記録する仕事だった。働いているときも、地震が起きたときも、原発の危険性についての認識はなかった。地震が起こり、所員の安全が確認された後、帰宅指示に従い帰宅の途についたという。急いで娘の保育園に向かった。
「いつかまた浪江の空を」を合唱曲として広めるプロジェクトも立ち上げた。ホームページから無料で譜面をダウンロードできる。
娘は無事だったが、翌日に同僚から「危ないから、離れたほうがいい」と電話を受けた。自宅は原発から約4キロの距離にあった。よくわからないまま、娘を連れて浪江を離れた。県内の郡山市にある親戚の家に着くと、水素爆発を起こし、煙を上げている映像が映っていた。自分の職場だった。「もう帰れないんだ」と思った。ほんの2、3日で終わると思った避難生活は、まもなく11年になる。
記事の後半では、現在の浪江町の状況や、幼い娘が「浪江に帰りたい」と言った理由、牛来さん親子の11年間の心境の変化などについて語ります。
娘と2人で群馬県太田市に移り住んだが、しばらくは食器も家具も買えなかった。段ボールの中から被災者支援でもらった簡易的な食器を出して使った。「意地を張っていたと思います。現実を認めなきゃいけないけど、どうしても認められないので。1~2年は誰にも届かない反抗をしていました」
しばらく経って、言いたいこ…