「ユズの馬路村」全国ブランド立役者の名物農協組合長が退任へ

冨田悦央
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 地元特産のユズを使った清涼飲料水「ごっくん馬路村(うまじむら)」などを全国的なヒット商品に育て上げた高知県馬路村農協の東谷望史(とうたにもちふみ)組合長(69)が、任期満了で25日に退任する。通信販売による産直ビジネスを切り開き、ユズ加工品は年商約30億円の規模にまで成長。農産品の「地域ブランド」のさきがけとなって、村おこしにも貢献した。

 1973年に同農協に入り、ユズ農家を支援し、青果を出荷販売する業務に就いた。80年からユズ加工品の販売拡大のため東京や関西の百貨店の物産展に出向き、顧客を開拓。86年のぽん酢しょうゆ「ゆずの村」、88年の「ごっくん馬路村」のヒットで、馬路村のユズ加工品は全国ブランドの仲間入りを果たした。

 馬路村は面積の96%が山林で国道も信号機もない。そんな「田舎」のイメージを逆手にとって「村を丸ごと売り込む」との戦略を立てた。広告ポスターに地元の農家や子どもを起用、素朴な土佐弁の宣伝文句も親しまれた。ピーク時には全国から年間約300の視察団を受け入れるなど、村を訪れる観光客が増え、国の「観光カリスマ」にも選ばれた。農協経営でも強いリーダーシップを発揮し、県内農協の統合の動きとは一線を画して、独立路線を貫いた。

 東谷さんは「(退任後は)一人の農協組合員としてユズの生産や林業に取り組む」と話す。だが、地元では「産業や観光振興などで今後も助言をいただきたい」との声が上がっている。

 退任を前に、これまでの歩みについて東谷さんに振り返ってもらった。

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 ――ぽん酢しょうゆ「ゆずの村」で馬路村農協は全国区の知名度を得ました。

 1988年の「日本の101村展」(西武百貨店)で、「ゆずの村」が最優秀賞を受賞したのがきっかけでした。同展のキャッチコピーは「東京には村が欠乏している」。あか抜けた商品が良いと思っていたけど、ローカルの優しさ、「田舎」が求められていたことを知りました。

 ――その88年には自ら、「ごっくん馬路村」を開発します。

 営農販売課長として保存料を使わず、安全安心のジュースを作ろうと考えました。試作品を自宅に持ち帰って子どもに飲ませても、「うまい」と言わない。試行錯誤し、ユズとはちみつと水を混ぜることで、後味がすっきりしたジュースができました。ガラスの広口瓶に詰めたのですが、「ごっくんと、一気に飲める。えい響きや!」と、村の名前と組み合わせて命名しました。

 ――元々は青果(ユズ玉)の生産や販売に力を入れていたそうですね。

 農協職員として高品質の青果を生産、販売してユズ農家の所得を増やそうとしました。でも、馬路村のユズ畑は傾斜地にあり、高齢化する農家の手間も考えるとかなり厳しかった。

 ――そこでユズ果汁などでつくる加工品で勝負する方針に転換したのですね。

 香りや味には自信があった。ぽん酢などの原料として大手調味料メーカーは大量に購入してくれるが、どうしても価格は安くなる。農協で柚(ゆ)の酢(ユズ酢)や塩漬けした果皮を佃煮(つくだに)にして消費者に直接届けようと、関西や東京の百貨店で物産展があれば積極的に出張販売しました。村で加工品をトラックに積み、自分で運転する。時にはフェリーを使って。百貨店に着くと会場で商品を陳列し、夜まで販売員として働きました。

 ――大変ですね。

 飛ぶように売れたこともありましたが、なかなかうまくいきませんでした。これが農協の仕事なのか。年を取る前に、体力まかせではない販売の仕組みを作ろうと誓いました。

 ――80年から顧客リストをコツコツと積み上げ、注文書を郵送する通販を始めました。

 同じころ、日本の輸送業界で宅配便サービス競争が広がりました。個人宅に荷物を届けるだけでなく、村まで集荷に来てくれる。これが追い風になりました。

 ――通販による産直ビジネスを切り開いた農協へ、全国から視察団や消費者が訪れ、馬路村の観光振興にも寄与しました。

 多くの人に出会い、村にいながら全国の情報に触れることができました。情報の発信の仕方も学べました。

 ――半世紀勤めた馬路村農協に残す言葉は。

 化粧品を含め馬路村農協のユズ加工品は現在約80品ありますが、ゼロからものを作った経験のない職員もいます。今のままでもしばらくは維持できるけれども、どんな事態に遭遇しても、壁を乗り越えるエネルギーを持って挑戦してほしいです。(冨田悦央)

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 とうたに・もちふみ 1952年、高知県馬路村生まれ。高知中央高校卒。高知市のスーパーに勤めた後、73年に馬路村農協へ。代表理事常務、同専務を経て2006年から同組合長。村おこしにも貢献したことから05年、国の観光カリスマにも選ばれた。