死亡・不明24人の千葉 慰霊碑前、亡き叔母夫婦を思う

藤谷和広 青山祥子 大久保泰
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 東日本大震災から11日で11年を迎えた。県内では22人が亡くなり、2人が行方不明のままだ。この日、沿岸では人々が海に向かって祈り、犠牲者を悼んだ。復旧事業はほぼ終わったが、被災地ににぎわいは戻らない。追悼式はなくなり、語り部の高齢化で伝承活動も岐路に立っている。

亡くなった人の分も生きる

 震災で県内最多の14人が亡くなり、2人が行方不明の旭市。昨年建立された慰霊碑には、住民らが献花に訪れた。

 叔母夫婦を失った菅谷幸江さん(58)は、「(叔母は)健康に気を使っていて『長生きするんだ』と言っていました」。

 叔母夫婦は同居する両親を高台にいったん避難させた後で自宅兼店舗に戻り、津波に流されたという。菅谷さんが後日、叔母の自宅を訪れると、1階だけが大きく被害を受けていた。菅谷さんは、「2階にいれば助かったのに。まさかあんなに大きな津波が来るとは思っていなかったんだろう」と声を詰まらせた。

 成田市の大学生、阿部佳奈さん(19)は、小学2年生の時に旭市で被災。「津波が来るぞ」という叫び声が聞こえ、家族で車に乗り込み、高台に避難した。自宅があった場所は土台だけが残っていた。

 被災後の約2年、仮設住宅で暮らし、知り合いのつてで成田市に移住した。震災後、小さい地震にも驚いたり、津波の映像を見ると気持ち悪くなったりするという。

 それでも、3月11日は故郷を訪れる。「つらいけど、なんか来ないといけない気がして」。この日、慰霊碑の前で手を合わせると、思いがあふれ、涙がこぼれた。

 家族とは避難場所の確認をするなど、次の災害に備えている。「亡くなった人の分まで生きようと、自分を奮い立たせています」(藤谷和広)

呼ばれる限り教訓を

 旭市飯岡の仲條富夫さん(74)は、自宅前に設置した鎮魂の鐘を、友人らと鳴らした。震災による市内の死者・行方不明者の数と同じ16回鐘を鳴らす集いは、今年で10回目を迎えた。富夫さんは「震災を忘れないという気持ちを新たにしました」と語った。

 富夫さんは2度の津波の後、「もう大丈夫だろう」と町内の様子を見に行き、自宅近くまで戻ったとき、妻や息子の目の前で第3波の津波に流された。鮮魚店の建物の入り口につかまり、九死に一生を得た。「偶然助かった」体験と、早めの避難にまさる防災なしという教訓を伝える語り部の活動を続けている。

 震災から11年。「もう災害を背負って活動しなくても」と言われることもある。しかし、今でも地震後に言葉を交わしたのを最後に津波にのまれた知人の顔が浮かぶ。「呼ばれる限り教訓を伝えていきたい」

 富夫さん宅の隣の仲條豊子さん(85)は自宅で津波に遭った。物音に胸騒ぎがして玄関を見に行ったところ、窓ガラスが割れて水が流れ込んできた。水位はあっという間に2メートルを越え、かもいにつかまり何とか首を水の上に出せた。「天井まで水があがったらどうしよう」と不安でいっぱいだった。

 幸い、水はすぐに引いた。壁には浸水した跡が残り、自宅を修繕した際に浸水位置に線を引き、日付を書き込んだ。「奥の部屋は壁の跡もそのまま残しました。ここまで津波の水がきたということを忘れないようにしたい」(青山祥子)

経験 紙芝居で伝える

 旭市の飯岡刑部岬展望館ではNPO法人「光と風」のメンバーらが集まって震災を語り継ぐ集いを開いた。会場には周辺を襲った津波の写真や震災前の街の写真などが展示された。

 地震の発生時刻には、約20人が展望館から見える海に向かって黙禱(もくとう)した。市内の死者・行方不明者の数に合わせて、魚鼓(ぎょく)が16回たたかれた。

 震災紙芝居も披露され、市内で津波に巻き込まれ助かった母子から聞き取った話が語られた。上演した市民劇団「ふく」の団長竹ノ内玲子さん(66)は「震災を知らない子どもたちも増えた。津波に備える大切さを伝えていきたい」と話した。母親と来ていた小学校4年生の崎山遥花さん(10)は震災の年に生まれた。紙芝居を見て「津波は怖い」と言った。

 会場にはNPOが11年間にわたって発行してきた「復興かわら版」も置いてあった。被災した住民に聞いた話を書いてきた渡辺昌子さん(75)は「最新号(65号)では地元にいる20代の若い人から震災を語り継いでいきたいという思いを聞いた。伝承活動を若い世代に引き継いでいきたい」と期待を込めた。(大久保泰)