支援活動打ち切り それでも東北へ JOC離れた66歳

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塩谷耕吾
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 さて、どこに向かおうか――。3月11日午前9時。福島県いわき市のホテルをチェックアウトした平真(たいらしん)さん(66)は、車に乗り込んだ。

 まずは海だろうか。原発事故の対応拠点だったJヴィレッジも気になる。さらに、14時46分はどこで迎えようか。思いを巡らせながら、ハンドルを握った。

 平さんは昨春、日本オリンピック委員会(JOC)を定年退職した。今月上旬、JOCの復興支援活動の資料を整理していると、落ち着かない気持ちになった。「今年は自宅でこの日を迎えるのか」。居ても立ってもいられなくなり、10日夕方にさいたま市内の自宅を飛び出し、北上した。これまで100回以上通った道だった。

 「組織を離れた自分に何ができるのか。現場に行けば、何か思い浮かぶかもしれない」

 JOCは震災後の2011年3月28日、医療支援のため、スポーツドクターらを岩手県大船渡市に派遣。当時、JOC事務局長だった平さんも同行した。ドクターは避難所を巡回し、住民の治療や診察にあたる。避難所の周りにはサッカーをしたり、鬼ごっこをしたりして子どもたちと遊ぶ若者の姿があった。宮部行範さん(17年に48歳で死去)だった。1992年アルベールビル五輪スピードスケート男子1000メートル銅メダリストで、現役引退後にJOC職員になっていた。その光景に衝撃を受けた。

 「子どもたちは『オリンピックのお兄さん』と言って、宮部君になついていた。避難所でじっとしていたお年寄りの方も、宮部君がラジオ体操をすると、『オリンピックの人だ』と喜んで体を動かしていた。オリンピアンということで、これだけの笑顔を生み出せるのか」

 帰京後、JOCの復興支援プログラム作りに取りかかった。オリンピアンが住民と一緒になって大玉転がしや玉入れなどをチーム対抗で競い合う「運動会」。そんなイメージを職員らと練り上げた。キャッチフレーズは「スポーツから生まれる笑顔がある」に決めた。

 11年10月10日、宮城県東松島市仙台市で第1回の「オリンピックデー・フェスタ」を開催。その後は被災地を中心に計154回開催し、延べ867人のアスリート、延べ2万4082人の住民が参加した。JOCは10年間で約7・5億円の予算を投じた。

 1979年に日本体育協会に職員として入った平さんは、80年のモスクワ五輪ボイコット騒動を体験。89年に独立したJOCに移った。スポーツを通じて世界平和を目指す五輪運動推進の部門が長かった。「日本では五輪はメダルのイメージが強い。強化部門に比べると影は薄かった」。スポーツの力、五輪の力というものは見えにくい。具体的な形で社会に貢献できたと感じたのが「フェスタ」だった。だから、時間の許す限り車を駆り、ほとんどのフェスタに参加した。

 ただ、JOCは昨年度に「1…

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