震災遺構・請戸小の長い1日 全国から福島に集う人々

滝口信之 酒本友紀子 福地慶太郎 飯島啓史
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 東日本大震災の発生から11年となった11日、福島県内唯一の震災遺構・浪江町立請戸小学校は、初めての「3月11日」を迎えた。昨年10月に開館し、大津波原発事故の爪痕を後世に伝える施設に、どんな人が集い、何を感じたのか。それぞれの思いを聞いた。(滝口信之、酒本友紀子、福地慶太郎、飯島啓史)

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 午前6時前 津波で大きな被害があった浪江町請戸地区に日が昇り、海岸から300メートルほど離れた請戸小の校舎を照らした。漁港そばの防潮堤から見ると、災害危険区域に指定された更地が野原のように広がるなか、ぽつんと校舎がたっていた。

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 午前9時30分 請戸小が開館した。校舎内では、津波にのまれた1階で壁や天井がはがれ落ち、むき出しになった内部の骨組みがいびつにねじ曲がっている。校舎内の時計や火災報知機を管理していた大きな複合盤が押し流され、教室の壁にもたれかかっていた。

 この日、震災前の学校行事の様子をしのばせる写真約200枚の展示が始まった。運動会や地域の田植えなどを楽しむ児童たちの姿が壁一面に並ぶ。

 受付役の町職員、玉川宏美さん(31)は「請戸の家はほとんど流され、昔の写真がない家庭も多い」。ゴールデンウィークごろまで展示し、来場者や家族、親戚が写っていた場合、データを提供してもらえる。

 玉川さんの母親は震災当時、請戸小1年の担任教諭だった。津波の後、2日ほど連絡がつかなかったが、児童たちと避難して無事だった。「母の教え子たちも写っている。大切な思い出を見つけてもらいたい」

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 午前10時 名古屋市の大学4年生3人が展示写真に見入っていた。2年間、町民に話を聞き、被災地の現状と課題を探ってきた。

 阿部桃子さん(22)は「復興五輪」と呼ばれた東京五輪の受け止めを大人たちに聞いたが、子どもと話す機会はなかった。子どもの集合写真を見て、「地域に多くの子どもたちの笑顔が戻ったらいいな」。写真は2005~10年の運動会や卒業式などが中心だ。金森成美さん(22)は「写っているのは私と同年代の人たち。いま何をしているのかな」と話す。

 足立清歌(さやか)さん(22)は、どろんこになって田植えをする子どもの写真を見て、「自然に触れ、地域に根づいた教育があったんだ」と感じた。今春、ハウスメーカーに就職する。請戸小の子たちが大平山に避難して全員無事だったことなどを知り、日頃の備えの大切さを感じている。「災害に強い家づくりに貢献したい」

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 午前11時30分 「これ、私だ!」。卒業生の古尾谷友里恵さん(34)=神奈川県=が声を上げた。以前から展示されている卒業式の写真に自分がいた。請戸小が公開されて以来、訪れたのは初めてだ。

 この日に展示が始まった写真の前でも足を止めた。田植えの写真を見ると、「学校の近くにみんなで歩いて行った。私は足をけがしていたので、あまりできなかったなあ」。

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 正午 宮崎大1年の梅田優哉さん(19)は災害ボランティアの仲間たちと訪れた。えぐられた壁、部屋の隅に動いた重い器具、通路に落ちた縄跳び。津波の威力に言葉を失った。

 震災当時は小学2年だった。テレビで見た津波の映像をぼんやり覚えている。「自分の目で見ると、ぜんぜん違う。津波は怖い」

 来る途中、放射線量を測るモニタリングポストを所々で見かけた。「町の人は放射能と向き合って暮らしている」と思った。実家の福井県にも原発が多い。事故の怖さを胸に刻んだ。

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 午後1時 東京都の会社員女性(57)はしみじみと外壁を見上げ、「壊されなくてよかったね」。

 女性は、震災の翌年からここに通う。学校の目の前に住んでいた知人の両親が津波で亡くなり、「ひとごとだと思えない」。周辺は原発事故のため自由に立ち入れなかったが、知人が通行許可証を取ってくれた。

 初めてきた時、打ち上げられたままの漁船があり、潰れた車が転がっていた。立ち入りが長く制限されていたため、ガレキの山が消えたのは最近だ。

 子どもたちが全員無事だった一方、津波で行方不明になった人たちの捜索は原発事故で阻まれた――。ここは二つの意味で教訓を発信できる貴重な場所だと思う。「世界の人たちに見てもらいたい。私も体力が続く限り通い続けたい」

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 午後2時46分 校舎内にアナウンスが流れ、来場者たちは足を止めて1分間の黙禱(もくとう)を捧げた。

 千葉県から来た安藤幸太さん(18)は「今後の災害で被害が出ないように、請戸小のように無事避難できるように」と祈った。

 小学1年の時、ニュースで津波の被害を見て、「将来は災害時に人を助ける職業に」と消防士を志した。今月、高校を卒業し、4月から東京消防庁で働く。

 就職前、以前から訪れたかった福島に同級生の渡辺陽希さん(18)と足を運んだ。「僕が消防士になろうと思った原点。ここで見た津波被害のすさまじさを、職場の仲間にも伝えたい」

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 午後3時30分 請戸小の北西約1・3キロの高台にある大平山霊園。元PTA会長の浦島博之さん(57)は「請戸小がある風景、風の匂いが懐かしい」。

 自身も2人の子どもも請戸小の卒業生だ。震災前、自宅は学校の近くにあり、校舎内の電気工事の設計施工も担当していた。自宅は津波に襲われ、避難していなかった父の洽(ひろし)さん(当時73)が巻き込まれた。2カ月後に霊園近くの田んぼで遺体が見つかり、6月に対面した時は遺骨だった。卒業式などの行事の写真も全てなくなった。

 震災遺構として保存されたことについては、「残してくれたのはありがたい」と話すが、開館した後は訪れていない。「震災直後の校舎内には物が散乱していた。今はきれいに整備されちゃったからね……」

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 午後4時30分 夕日で照らされた校舎内に「請戸小は閉館いたしました」とアナウンスが流れた。最後の来場者たちが建物をあとにした後も、校舎内の時計は津波到達時刻の午後3時37分で止まったまま。校舎は静かにたたずんでいた。

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 午後5時30分 請戸小から約2キロの東日本大震災・原子力災害伝承館(双葉町)では、請戸小のピアノを弾く演奏会があった。

 ピアノは震災時、2階の教室で10センチほど水につかった。4年前に開校したなみえ創成小・中学校で使われた後、昨年10月から同館で展示されている。

 この日、郡山市出身で福島大4年の中谷仁絵さん(22)が「シンデレラ」など5曲を演奏した。

 中谷さんは発災時、市内の自宅にいたが、原発事故の後、福井県の親戚宅に避難した。今春、大学院に進学し、音楽教諭をめざす。「音楽の素晴らしさと震災の悲惨さを伝えられる教員になりたい」

 双葉町出身の琴奏者、大川義秋さん(26)も中谷さんと共演した。「震災を経験した物が減ってきている今、多くの人の努力でピアノが受け継がれている。その思いを受け継ぎたい」

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