日大三島、38年前につかんだ劇的勝利 今も続く「全員野球」
38年前のあの光景を日大三島のOB会長を務める長谷川記一(のりかず)さん(55)は鮮明に覚えている。
1984年3月29日。春夏通じて初めて挑む甲子園の初戦だった。相手は大阪・三国丘。打者だった相手投手に死球をぶつけてしまうとスタンドから「いてもうたるぞ」とヤジが飛んだ。球場は、つめかけた観客5万4千人の熱気であふれていた。
副主将だった長谷川さんは大会直前に左足を痛め、試合には中盤から交代して出場した。2点を追う九回裏、押し出しで1点差に迫った無死満塁の好機で打席に立った。「こんないい場面に回ってきた」と、緊張よりも喜びが勝った。直前で代わった救援投手から二ゴロで何とか出塁。続く打者が強振した。打球が右翼手の頭上を越えていくのを見て、「行け!」と二塁走者に叫んだのを覚えている。2人がかえってサヨナラ勝ちした。アルプススタンドで大喜びする3千人の日大三島生の姿を見て、胸にうれしさがこみ上げた。大会は2回戦で岩手・大船渡に敗れた。
長谷川さんたちの代は、1年の夏の県大会は1回戦で敗退したものの、2年の夏は16強入りし、秋には優勝を果たした。
「日大三島から甲子園に行こう」と同級生と声をかけ合って進学した。実力のある地元選手が集まり、本気で甲子園を目指した。朝5時から自主練習をして、放課後は午後11時までグラウンドでバットを振った。帰り際に学校の守衛さんからもらった「がんばったな」の言葉が温かかった。
「全員野球」も大事にしていた。Aチーム、Bチームと二手に分かれて練習し、Aチームでなければ試合に出られなかった。それだけにグラウンド整備でも監督にアピールする姿を見せ、背番号をつかもうと競い合った。「努力しないとアピールの意味がないぞ」。必死になる長谷川さんを見て、先輩も自主練習につき合ってくれた。「みんながレギュラーを目指してがんばり、レギュラーになったら全員の思いを背負う」。長谷川さんは全員野球の魅力をそう語る。
選手同士で闘志を燃やし切磋琢磨(せっさたくま)する伝統は、今のチームにも受け継がれている。新型コロナ対策として最近はチームを二つに分けて練習しているが、選手と監督の「全員野球」への思いは変わっていない。「スタンドとフィールドが一緒になって全力を尽くしてほしい」と長谷川さん。38年前にもらった応援を返すように、当日はスタンドから力いっぱいエールを送るつもりだ。(魚住あかり)
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