京料理や江戸前はよく聞くけど、「大阪料理」とはなんや――。高度経済成長に万博景気、バブルとその崩壊。時代とともに食を取り巻く環境も激変する中、料理人として「なにわの食」を見つめてきた上野修三さん(86)。引退した今も、「食の随筆家」として大阪の食文化を発信し、勉強を続けています。
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――料理人を最初から志していたわけではないそうですね。
「僕は大阪・河内長野の山村に、7人きょうだいの2番目として生まれました。ほんまは画家になりたかったけど、貧しゅうて勉強どころではおまへん。中学を出ると、紹介で、大阪ミナミの仕出し料理店に修業に出ることになりました」
「祖父の代から炭焼きをなりわいにしていました。修業時代、備長炭で焼かれる魚を見て、ふるさとを思い、『弟や妹に食べさせてやりたいなあ』と思ったものです」
――仕事がおもしろくなったのは?
「先輩はえらい怖いし、ずっと辞めたかった。でも手先が器用で、むきもの(野菜の彫刻)は得意。好きなほうに自分で引きつけたらええ、考え方次第と思い直しました。ある時、食べるのを楽しんではるお客さんの顔を見て、料理にはこんな力があるんか、これはやる価値あるな、と思いました」
――「大阪料理」を追求するようになったのはなぜですか。
70年の大阪万博が開催された、景気のいい、浮かれた時代。店もお客も外国料理に目がいき、食材は無駄をたくさん出していた。そんななか、独立していた上野さんは、ふと考えます。なにか大事にせなあかんもん、忘れてへんやろうか…。
「30歳で独立し、大阪万博…
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