森山良子が抱え続けた23歳の兄の死 なんでの思い、涙そうそう
「うーん、これが大人か。大人のやり口なんだな」。森山良子はデビューして「フォークシンガー」と呼ばれたとき、そう思ったという。アメリカのジャズやポップスで育った森山。だが、時代はフォークブーム。「そう言っておけば売れる、みたいなね。『フォークの女王』だなんて『いやいや、ちょっとまって』って気分。ジャンル分けされることほど窮屈なことはない。抵抗感はありました」
一度付いたイメージは手ごわかった。フォーク以外のことをやると観客の反応は悪く、自らの色を出せば出すほど、客はどんどん少なくなった。「フォークの部分を残しつつ、いかに活動していくかっていうバランスが難しかった」。今でもフォーク歌手と呼ばれると、「まだ言っているんだと思いますね」と笑う。
次第にフォークブームが下火になると、今度は歌謡曲調の「禁じられた恋」が提供され、「目の前が真っ暗になった」こともあった。一方で、作曲者の三木たかしをはじめとするスタッフ陣のヒットを生み出すための執念に圧倒された。「見たことも聞いたこともないようなエネルギーだった。小娘の私が『歌いたくない』ということは、彼らにとってみればほんのささいなことでした」。プロフェッショナルな情熱に触れた瞬間でもあった。
デビュー55周年を迎え、初のオールタイムCD―BOXとなる「MY STORY」を発売した。レコーディングされてきた膨大な楽曲群から、159曲が収録されている。
人生にとって重要な曲として挙げるのは、「涙そうそう」。23歳で急死した兄を思い、作った楽曲だ。
記事の後半では亡き兄への思いや、長い時間が経って生まれた「涙そうそう」、沖縄戦を歌った「さとうきび畑」を歌えなかった過去、ウクライナ情勢への思いや、74歳にしてようやく目指す音域にたどり着いたという驚きのエピソードを語ります。
「人の悲しみは延々と続く」 苦しみを浄化した「涙そうそう」
「愛する人を失った悲しみっ…