第2回弾が引きちぎった指3本 日本へのわだかまり解いた「ごめんなさい」
「沖縄人、朝鮮人お断り」
本土復帰以前、本土の貸家には、こんな紙が貼られているところがあったという。わたしの母や親族も、本土に出てきて、こうした貼り紙を見たことがあると語っていた。
独自の言葉と文化を持ち、日本と異なる国だった沖縄の人々は、日本の政府や人々から差別的な扱いを受けた。明治時代には、博覧会で「琉球人」として「展示物」にされたこともある。戦時中には、本土出身者が理解できない沖縄の言葉を話したために、沖縄の人がスパイ扱いされたこともあった。こうした出来事の積み重ねや記憶が、沖縄の人たちに日本や日本人への複雑な感情を抱かせることにつながったと考えるのは、間違いではないだろう。
ブラジルで復帰50年の取材を始める時、遠い南米に暮らしていても、復帰当時には、喜びなり不満なり、何らかの強い思いがあっただろうと想像していた。だが、予想は裏切られた。本土復帰に「感慨はなかった」と口にする人ばかりだったのだ。そして、取材した人たちから語られたのは、日本や「日本人」への複雑な思いだった。ブラジル・サンパウロ市北東部のビラカロン地区に住む金城繁子さん(86)も、そんな思いを抱えて生きてきた一人だ。
【前回】話に乗せられた一家、南米で見た現実 届かなかった「日の丸のお金」
本土復帰から50年。地球の反対側で生きた移民たちの目に、沖縄は、そして日本はどう見えていたのか。3回連載の2回目です。
金城さんは戦後60年以上、ずっとうそをついて、生きてきた。
金城さんの右手は、親指と小指しかない。子や孫から「どうして指がないの」と尋ねられたら、「包丁で遊んでいて切ってしまった。だから気をつけるんだよ」と言ってきた。そして、失った指を思うたび、日本や日本人に対する複雑な感情がわき起こった。
1944年6月、9歳だった金城さんは、父母やきょうだいの計8人で南洋の島サイパンをさまよい歩いていた。
戦前のサイパンには沖縄から…
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