第3回「日本人とは何者か」50年後の問い 知らなかった沖縄と今向き合う

有料会員記事沖縄・本土復帰50年

サンパウロ=岡田玄
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 日本にあった沖縄出身者への差別は、南米の移民先にも持ち込まれ、本土出身者と沖縄出身者の間に確執を生んだ。

 わたしの曽祖父の兄弟らも100年近く前、ブラジルアルゼンチンに移民した。日系3世になる親戚の花城ホベルト(71)は、生まれ育ったサンパウロ内陸部の農村でも、日本人と沖縄人のグループが、ことあるごとにぶつかっていたと言う。

 日本人会館も本土出身者と沖縄出身者で違う建物だった。大人が対立していたため、子どもたちも常に本土系と沖縄系で分かれていたという。「サッカーでも野球でも、同じチームになったことなんてなかった」

 沖縄系は沖縄系だけで結婚し、本土出身者は本土出身者同士で結婚するということもしばしばだった。

 だが、時代は変わった。世代が進み、現地社会に溶け込むと、本土系と沖縄系が結婚することも増えた。

【前回】弾が引きちぎった指3本 日本へのわだかまり解いた「ごめんなさい」

本土復帰から50年。地球の反対側で生きた移民たちの目に、沖縄は、そして日本はどう見えていたのか。3回連載の最終回です。

 米軍の主導で始まったボリビアへの計画移民は、沖縄の本土復帰の3年前、1969年まで続いた。だが、すでに60年代に入ると希望者は次第に少なくなっていた。日本の高度経済成長が始まったためだ。地球の反対側にある南米ではなく、より近くの本土への出稼ぎや集団就職が増えた。

 そして80年代に入ると、移民の逆流が起きた。南米から日本への「デカセギ」だ。89年には入管法が改正され、この流れが加速。3世までの日系人は「定住者」として、労働ビザなしで日本で働けるようになった。日本で知り合い、結婚した人たちも少なくない。

 ブラジル・パラナ州に住む金城ビアンカさん(24)は、日本で生まれた日系3世だ。小学3年生まで神奈川県藤沢市で育ち、その後はブラジルで暮らした。日本語も滑らかだ。

 ビアンカさんの父方の祖母は、第2次世界大戦中のサイパンで右手の指3本を失ったことを隠してきた金城繁子さん(86)だ。「包丁で遊んでいて指を切った」とうそをついてきた繁子さんに、本当のことを話す決心をさせた孫は、ビアンカさんだった。

 ブラジルから出稼ぎで来日して知り合った日系2世の両親の間に生まれたため、ブラジル国籍だ。父方は沖縄出身だが、母方の祖父母は本土の出身。生まれた1997年には、沖縄の本土復帰から25年が過ぎていた。

 日本の血が流れ、日本語も話す。それなのに、日系人が日本では「外国人」として扱われることが不思議だった。ブラジルに来ると今度はブラジル国籍なのに、日本人に対するさげすみも含んだ「ジャッパ」という言葉で呼ばれた。「どこにいても、よそ者だった。思春期には、日系人であることが本当に嫌だった」

何も知らないはずの島で

 母のふるさとのブラジル南部…

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