40年前に難民だった僕が、ウクライナ避難民の子どもに伝えたいこと

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松川希実
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 日本の空港に降り立つウクライナの「避難民」。大きなリュックを背負った子どもたちの姿に、伊東真喜(まさき)さん(53)は目を奪われた。

 「ウクライナの戦争は、私が経験した戦争よりもっとひどい。子どもたちがとても傷ついているのは間違いない」

 1968年12月、ベトナム戦争まっただ中に、サイゴン(現ホーチミン市)で生まれた。7人兄弟の3男で、「チャン・アン・トン」と名付けられた。

 父が旧南ベトナム政権側の軍医だったことで、戦時下でも、幼い頃は恵まれた教育を受ける余裕もあった。

 生活が一変したのは、7歳の時。旧南ベトナム政権が崩壊し、家族が追いやられたのは、不発弾が残る土地だった。

 畑を耕さなければ空腹で死ぬ――。必死の覚悟で畑を耕した。近所の一家8人が吹き飛ばされたこともあった。毎日、まわりで誰かが亡くなるのを見た。

 「このままだと子どもたちの未来がない」。両親は、息子3人を亡命させようと決意した。先に兄2人が亡命船に乗ったが、「沈没した」といううわさが流れた。

 家で1人、涙を流した父の背中を覚えている。

 でも家族に選択肢はなかった。「国に残ったとしても、飢え死にか不発弾か」。しばらくして、母に海に連れて行かれた。

 岸にあったのは小さな木造船。母は何も説明せず、泣きながらご飯を握らせ、「船に乗って」とだけ言った。

 ちゅうちょしているうちに、船が岸を離れ始めた。無我夢中で海に飛び込んで船を追った。

 まだ11歳だった。覚悟なんか、出来なかった。ただ、「行く先には希望がある」、それだけは信じていた。「少なくともベトナムとは違う」、と。

 沖合で大きな難民船に乗り換え、17日間、105人で海を漂った。行き先は分からない。水が足りず、レモンの皮をかじって耐えた。途中、海賊に襲われ、金品を奪われた。命がとられなかっただけ、運が良かった。

 油田にたどり着き、外国籍の船に助けられた。直後に、乗ってきた木造の船が目の前で沈没した。

 ぎりぎりで、生き延びた。

 マレーシアの難民キャンプでは、「どこでも使えるから」と英語を勉強しながら、亡命先が決まるのを待った。

 希望を聞かれ、「日本」と答えた。同じアジア人なら顔が似ているし、うまくやれそうな気がしただけだ。でも、まわりの難民からは「日本は厳しい国。やめた方が良い」と止められた。

 1981年2月4日。

 日本に来た日付は、40年以…

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