鍛冶屋原線、惜しまれ廃止50年 徳島・上板で企画展

福家司
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 国鉄のローカル線で徳島県にあった鍛冶屋原線(板野―鍛冶屋原間)の廃線から今年で50年となる。地元の上板町立歴史民俗資料館で企画展「なつかしの鍛冶屋原線―廃線から50年―」が開かれている。

 鍛冶屋原線は1923(大正12)年、阿波電気軌道が単線非電化路線の上板線として開通。全長は6・9キロで、途中に犬伏、羅漢、神宅の3駅があった。その後国有化され、35(昭和10)年には高松と徳島を結ぶ高徳線の全通とともに支線の鍛冶屋原線となった。当時から「急ぎゃ自転車、急がにゃ歩け、なおも急がにゃ汽車に乗れ」とその低速ぶりを揶揄(やゆ)されたと伝わっている。

 戦時中の43(昭和18)年には不要不急線として運行が休止されたが、4年後に再開。その後はディーゼル車が導入され、徳島への直通運転も実施された。

 しかし、競合する路線バスに客を奪われ、モータリゼーションの進展もあり乗客が減少し、廃止された。廃止直前は上下各8便(うち各1便は土曜のみ運転)が運行され、うち各2便は徳島に乗り入れていた。現在、当時の線路用地の一部は県道鳴門池田線に転用されているが、駅舎やホームなどは残されていない。

 企画展には、上板線の開通当時のポスターや鍛冶屋原駅の平面図、行き先表示板、信号灯、タブレット(通行票)など主に資料館の所蔵品を展示。また、1972年1月15日の最終運行日に列車に付けられたヘッドマークの実物や、廃線を記念して作られたアルバムから、多くの人が別れを惜しんだ様子をとらえた写真などを展示している。

 30日まで、月曜休館。入館無料。問い合わせは資料館(088・694・5688)。(福家司)

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 蒸気機関車(SL)時代の鍛冶屋原線で機関士、運転士を務め、今回の企画展に協力した元国鉄職員の安芸勝正さん(88)=上板町=に当時の話を聞いた。

 安芸さんは1953(昭和28)年、国鉄に入った。父親も国鉄で保線の仕事をしており、あこがれていたという。徳島機関区(現、徳島運転所)で58年に機関助士、65年に機関士となって高徳、牟岐、鳴門、鍛冶屋原の各線で乗務した。

 当時、鍛冶屋原線にもディーゼル車が導入され、日中の利用者が少ない時間帯はディーゼル車、利用者の多い朝夕は小型のC12型蒸気機関車による客車列車が運転された。「客車列車に乗務したときは、夕方徳島を発車し、板野で高松行きの客車を切り離し、約1時間で鍛冶屋原に到着。駅前の民家の1室を借りていた宿舎に泊まって、翌朝の列車で徳島に折り返した」という。

 朝の各駅では、ドアが開きっぱなしの客車に飛び乗る学生が多かった。「『はよう乗れよ』とゆっくり運転した。愛情運転でした」と振り返る。鍛冶屋原駅では翌朝の出発に備え、夜も機関車のボイラーの火を絶やさなかった。「出発前に燃え残った石炭がらを捨てるとき、火鉢の燃料にもらおうと、多くの人が集まっていた」という。

 沿線に川の下をトンネルでくぐる「天井川」があった。「線路脇には川から落ちてくる水を流す排水路で洗濯をする人が多く、危険なのでいつも警笛を鳴らしていた」という。「台風の時は線路が見えないほど冠水していたが、何とか乗り切ったこともある」

 また、板野駅前にはパレス、鍛冶屋原駅前には昭和座という映画館があり、フィルムは列車で運搬されていたという。「そのおかげで、国鉄職員は映画をただで見ることが出来た」。弟の和男さんも国鉄マンで、後には徳島気動車区(現、徳島運転所)の区長も務めた。「弟が機関助士、私が機関士を務めた列車もあり、同僚から『機関車を家に持っていぬ(帰る)なよ』冷やかされた」と苦笑する。

 乗務していて、乗客の減少ははっきり感じていたという。「当時、国鉄バスと徳島バスが徳島への路線バスを運転しており、特に徳島バスが大幅に増便したのが響いたのだろう」とみる。

 「鍛冶屋原線を穴吹まで西に延伸して、列車で四国霊場八十八カ所をめぐるルートを開発してほしかった」と今も廃線を惜しむ。「鍛冶屋原線は通勤、通学でも利用し、多くの友達を運んできた、私にとって心と身体のふるさとでもあった路線です」と語った。