ミカン農家数軒の研究園、半世紀かけて地域の農業・福祉支える団体に
宇和海に面し、ミカン畑が広がる愛媛県西予市狩浜地区で約半世紀前、数戸のミカン農家が農業の自立や持続可能な地域を目指す取り組みを始めた。今、農家61人、職員130人を擁する「無茶々園(むちゃちゃえん)」グループとして加工品の開発や福祉事業にも幅を広げ、地域を支える。「(株)地域法人無茶々園」の社長などを務める大津清次さん(57)に、将来への思いなどを聞いた。
――「無茶々園」はどんな集まりですか。
この地域の農業は戦後、イモや麦などの自給的生産からかんきつ類を主体に販売する形態に転換しましたが、農家はなかなかもうかりませんでした。1974年、農家の人たちがお寺から借りたミカン園で有機農業の研究園を始めました。「苦」を除きながら「無茶苦茶」やってみようという思いから「無茶々園」と名付けました。化学肥料などによる環境汚染問題を紹介した小説「複合汚染」(有吉佐和子著)が朝日新聞で連載され、消費者運動が高まったころで、都市部の消費者とのつながりが深まりました。
無茶々園は、環境に配慮しながら安全な食べ物を供給し、町づくりを目指す「運動体」でもあります。その理念を実現させるため、地域協同組合のもとに農事組合法人や株式会社などを次々に作り、生産や販売などを分担しています。
――ご自身はどう関わり、どう取り組んできましたか。
80年代末、地元で農家のミカンの配送などに関わった縁で、農事組合法人の最初の職員になりました。当時は収穫したミカンの集荷場が地元になく、各農家の倉庫を回って集めていました。あるとき、東京から1千ケースの発注が突然入りましたが、送るミカンが手元になかった。農家を回って「山からとってきて」と頼み込み、かき集めて何とか対応しました。台風による塩害で枯れた大量のミカンの木を植え替える対応に追われたこともあります。各農家と苦労しながら、生産や消費者に届ける楽しさを分かち合ってきました。
――農業以外にも様々な取り組みをしていますね。
地元で高齢者施設を運営しています。ヘルパーを養成しながら地域の雇用を創出してきました。かんきつの果皮や果汁などの加工品の開発、独自のコスメブランド「yaetoco(ヤエトコ)」の展開などもしています。過疎高齢化の地域で、農業や田舎暮らしに価値を見いだして移住就農を望む都市部の若者も積極的に受け入れています。
各事業は、農家・漁業者や職員らに出資を募って意見も反映させながら運営します。「協同労働」という働き方で、二十数年前、先駆的に採り入れていた県外の団体に3年ほど出向し、学びました。現場の人が「指示待ち」ではなく、自らのアイデアを実現させようという思いが強く、生き生きとしていて元気だった。復帰後、無茶々園でもこの働き方を採り入れました。そもそも農業の伝統的な家族経営の形は協同労働だったとも言えます。
――事業の現状は。
収穫可能なミカン畑は現在、近隣の宇和島市を含め約140ヘクタール。かんきつ類の取扱量は加工を含めて年間2500トンほどです。今年は、イヨカンの果汁の搾った後の皮を活用し、製品を使った後の環境への負荷軽減を図ったセッケンが、化粧品として民間主催の「サステイナブルコスメアワード2022」で金賞に選ばれました。地域活性化の取り組みは総務省の「ふるさとづくり大賞」を受けました。
SDGs(持続可能な開発目標)が注目されていますが、それに通じるエコロジーという考え方が無茶々園には創業当初からあり、そのDNAは今も受け継がれています。
――地域の将来像をどう描いていますか。
郷里を子どもたちにどう引き継ぐかを考えています。農業は、もうけも含めて楽しくないと続かない。しかし「自分ファースト」でも長続きしません。だれかがいて、自分があるんです。持続できる農業で地域の土台を築き、食とエネルギー、福祉、雇用などで自給的に住み続けられる地域にしたいです。(亀岡龍太)
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おおつ・せいじ 1965年、愛媛県明浜町(現・西予市)生まれ。運送業に従事した後、24歳で「農事組合法人無茶々園」の最初の職員に。2004年に「地域協同組合無茶々園」専務理事、11年に「(株)地域法人無茶々園」社長に就任。自らもミカンを栽培する。
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