ウクライナを脱出「欧州より日本が近かった」 女性が頼った先生の縁
ロシア侵攻後のウクライナで過酷な逃避行を経験した後、福島県に避難してきた一人の女性が、周囲の支援を受けながら新たな一歩を踏み出している。母国に残る家族の身を案じながらも、日本語を学び、就農して自立をめざすという。(笠井哲也)
ウクライナでの平和な日々は、突然のロシア侵攻で踏みにじられた。
2月24日午前5時、首都キーウ(キエフ)の自宅マンションで就寝中だったルバン・オリガさん(34)は轟音(ごうおん)で目を覚ました。「何が起きたのかわからなかった」。テレビをつけ、戦争が始まったことを知った。「信じられなくて……。夢かと思った」
飲料水とスマートフォン用のバッテリー、薬を手に取った。今をどう生きるのか。それしか考えられなかった。シェルターとなる近くの地下鉄の駅に走った。
砲撃でシェルターに身を潜め
それから1カ月ほど、砲撃の音が大きくなればシェルターに身を潜め、音がやむと自宅のマンションに戻って食事を取った。シェルターと自宅を行ったり来たり。その繰り返しだった。
シェルターでは座って仮眠をとるだけ。自宅にいても怖くて眠れなかった。夜になると、ミサイルが光るのが見え、着弾とともに家が揺れた。同居していた夫婦、そして飼い猫1匹とともにバスタブの中に身を寄せ、じっとしていた。
3月27日、1人で避難列車に乗り込んだ。靴1足にズボン1本。上着や歯ブラシなど日用品を入れた小さなバッグだけ抱え、ポーランドのワルシャワ経由でドイツのベルリンの友人宅へ向かった。
2日間滞在した友人宅で少し落ち着き、将来のことを考えることができた。
ウクライナから離れたくはなかった。キーウから北東、ロシア国境近くの小さな町で暮らす両親は「ここは私たちの土地。どこへも行かない」と、国内にとどまる意思が固かった。
でも、自分は環境を変える必要があると思った。船舶などの契約書類を管理する仕事をしていたが、会社の建物は爆撃で失われ、仕事も辞めていた。「新しい環境で新しい生活を始めよう」。そう決心した。
政府専用機で来日、福島へ
避難先として頭に浮かんだの…
【7/11〆切】スタンダードコース(月額1,980円)が今なら2カ月間無料!詳しくはこちら