「あの恐怖、忘れられない」 ペルー大使公邸事件、元人質の思いとは

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サンパウロ=軽部理人
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 「ペルー日本大使公邸人質事件」の解決から、今月22日で25年を迎えた。最大で約600人の日本人らが人質となった事件から四半世紀を経て、当時の関係者は何を思うのか。事件は今もペルー社会に影を落としていた。

庭に並んだ出店、突然大きな爆発音

 「襲撃があった瞬間は、25年経った今でも鮮明に覚えている。命が助かって本当によかった」

 ペルーで旅行会社を営む津村光之さん(70)は、そう語る。事件に遭遇し、7日間の人質生活を経験した。

ペルー日本大使公邸人質事件

 1996年12月17日、天皇誕生日の祝賀レセプションが開かれていたペルーの首都リマにある日本大使公邸を、左翼ゲリラのトゥパク・アマル革命運動(MRTA)が襲撃した。MRTAは「収監中の仲間の釈放」を求めて公邸を占拠し、青木盛久大使(当時)をはじめ各国の要人、企業関係の邦人ら最大約600人を人質にとった。人質は徐々に解放されたが、事件は長期化した。127日目の97年4月22日、ペルー軍の特殊部隊が大使公邸に突入。人質のペルー最高裁判事と特殊部隊の兵士2人が死亡したが、日本人24人を含む71人が救出された。犯行グループはメンバー14人全員が射殺された。

 1996年12月17日、ペルーの首都リマの日本大使公邸で開かれた天皇誕生日の祝賀レセプション。庭には天ぷらやすしの出店が並んだ。津村さんは当時、食事をとりながら参加者らと歓談していた。

 午後8時過ぎ。大きな爆発音がした。「天ぷらの鍋でも爆発したのかと思った」と津村さん。だが立て続けに機関銃の音がしたため、ただ事ではないと察知して庭の地面に伏せた。音が鳴りやみ、一緒に伏せていたペルー人と「飲み直そうか」と立ち上がったところ、武装集団が銃を携えて集まっていた。

 「殺されるという恐怖しかなかった」

 左翼ゲリラ「トゥパク・アマ…

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