村上春樹さん、フィッツジェラルド未完の長編小説を翻訳 なぜ今?
村上春樹さんのライフワークともいえる、米作家スコット・フィッツジェラルドの翻訳に新たな一冊が加わった。早世により未完となった長編小説「最後の大君」(中央公論新社)。学生時代にはあまり感心しなかったという絶筆をいま訳したのはなぜなのか。どこに魅力があるのか。村上さんが共同インタビューで語った。
――「最後の大君」は昔から翻訳されようと思っていたのですか。
最初は多分やらないだろうと思っていたんです。学生時代に読んだころはそこまで感心しなかった。でも年齢を重ねて読み直してみたら、いいなと思って。
――感心しなかったというのはどのあたりでしょうか。
やっぱり未完ですし、肩すかしを食った気がしてたんですよね。「グレート・ギャツビー」のころのある種の華やかさが消えて、落ち着いた話になっている。文章もうまくなってるけど、華々しさがないから、若いときに読むと、「ギャツビー」みたいにはビリビリこない。そういう意味では静かな小説なんですよ。
――受け止め方が変わった?
じわっとね、温泉のぬるめのお湯みたいな感じでくるんです。もう一つは僕自身の翻訳者としてのレベルが少しずつ上がってきて、そういう文章をうまく自分の文章に引きつけて訳せるようになってきたなということがあります。未熟だとうまく日本語になりにくい文章ではないかと思うんですよ。
――「最後の大君」は1930年代のハリウッドが舞台です。映画プロデューサーの娘で大学生のセシリアが、主人公の敏腕プロデューサーのモンロー・スターに恋をして始まる。突然、運命の恋に落ちるドラマの始まりをどう思われますか。
フィッツジェラルドの小説は「ロマンス」が中心になるから、そういうことってあるんですよね。ある種の異様なまでの憧れとか、常軌を逸した行動とかがないと物語が進まない。ヘミングウェイなんかはもっとクールですよね。フィッツジェラルドは、どうしようもないくらい熱い思いとかがエネルギー源になっている。僕はそれをロマンスと呼んでます。
――そういうものにひかれる気持ちはありますか。
シチュエーションにひかれるというよりは、それを描ききる筆力にひかれます。下手な人が書くとどうしようもないんですよ。おとぎ話みたいになってしまって。でもうまい人が書くと、必然性が生まれてくる。結局、僕が翻訳するのは、翻訳自体が好きでもありますけど、小説家として学ぶために翻訳してるわけで、フィッツジェラルドの筆力はすごく勉強になるんです。
――主人公のスターは成りあがり者で、かなわない恋に翻弄(ほんろう)される。その点でギャツビーを思い起こします。違いはなんでしょうか。
フィッツジェラルドの代表作「グレート・ギャツビー」を村上さんは「最も大事な小説」と言います。では「最後の大君」は? 半世紀近くにわたり翻訳を続けてきた村上さんならではの言葉が続きます。
エドマンド・ウィルソン(米…