第13回故郷に「フレスコ画」震えた 保存にかかわった洋画家の絹谷幸二さん

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聞き手 伊藤誠、岡田匠、米田千佐子
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 高松塚古墳壁画(奈良県明日香村)が描かれた技法は、壁に塗った漆喰(しっくい)の上に顔料で絵を描く西洋の「フレスコ画」と似ていた。壁画発見から1年半後の1973年、文化庁の要請で保存対策委員として調査した洋画家の絹谷幸二さん(79)はフレスコ画の第一人者だ。壁画の美術的価値や、当時考えた保存方法はどのようなものだったか。

 ――壁画発見の時はイタリアにいましたね。どういう経緯で知ったのですか。

 「東京芸術大学の大学院を修了した後、71年3月からフレスコ画を学ぶためベネチアへ留学しました。漆喰といえば日本では本格的な壁です。私は古都・奈良の生まれということもあって、歴史の厚さというものを感じたかったのです」

フレスコ画(アフレスコ)とは

西洋で古代から用いられている壁画の技法。壁に生乾きの漆喰を塗り、乾かないうちに顔料で絵を描く。乾燥する過程で顔料が吸収され、乾燥後に表面にガラスのコーティングのような層ができて顔料が閉じ込められる。長期間にわたって色あせない点も特徴。

 「心置きなく勉強し、画廊などで作品の発表も続けていたところへ、突然、高松塚で極彩色壁画が見つかったという記事(72年3月27日付)が載った新聞が、日本から送られてきました。ニュースを知らせたかったのだろうと思います」

 「大きな写真も出ていて『これはすごいものがでたな』と。もう、感動に震えました。当時、日本ではフレスコ画がほとんど知られておらず、私は道無き道を切り開くような、とても孤独な闘いをしていました。だから、私の応援団が、しかも故郷から現れたと思いましたね」

 「発掘調査のチームに橿原考古学研究所の伊達宗泰さん(故人)がいました。伊達さんは私が奈良学芸大学(現奈良教育大)附属中学で理科を習った先生だったので『これは、ご縁があるなあ』と思いました」

 ――ご自身も調査に参加することになります。

 「それから3カ月ほどたって、日本の文化庁の課長さんがベネチアに来られて、修復・保存に協力してほしいと言われました。(イタリア国立の)ローマ中央修復研究所へ留学してほしいと。研究所にはいろんな科があり、フレスコ画の責任者はモーラ夫妻という研究者お二人でした」

心から「力になりたい」

 「高松塚の入室調査に向けて1年ばかり修復の仕方を勉強して、73年秋にモーラ夫妻と日本へ帰りました。お国のためにも故郷のためにも、力になりたいと心から思って。ヨーロッパで画家としてやっていける自信をつけていた時期で、個展の開催もいくつか決まっていました。高松塚の壁画が出ていなければ、帰国していなかったですよ」

 ――73年10月、文化庁の現地調査でついに石室に入りました。

 「中国や北朝鮮などで見た壁画は古墳自体がすごく大きくて、人物像は等身大より大きいくらいでした。ところが高松塚の人物の顔は、これぐらい小さい(人さし指と親指で円をつくって示す)。その中に目があって、まつ毛もまゆ毛もある。中国などの壁画にはないほど見事な筆遣いで描かれています」

絵画として一級品

 「似た絵はあるが、これほど絵画として配慮が行き届き、精緻(せいち)を極めた壁画は見たことがありませんでした。顔を一つひとつ見ると表情豊かで余韻もあって、『あ、これはうちのおばさんの顔に似ているな』と遺伝子のつながりのようなものさえ感じました。死者に対する慈愛に満ちている。絵画として一級品です」

 ――どのようにして描いたのでしょうか。

 「絵によって筆致が違うとこ…

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