イビチャ・オシム(享年80)のサッカー日本代表監督としてのキャリアは、わずか1年半で幕を閉じた。
その代表が、熱く燃えた夏がある。
2007年7月、東南アジアの4カ国共催で開かれたアジアカップ。
考えながら、走る。
単純で奥深いキーワードが選手に浸透し、チームづくりは第1章のクライマックスを迎えていた。
話は開幕から2カ月ほど前にさかのぼる。
いまと違い、代表の大半を国内組が占めていた時代。オシムはJリーグの日程のすき間を縫うように練習合宿を重ね、独特で複雑なメニューによって選手を鍛え上げていた。
5月の合宿で、確かな成熟を感じさせる場面があった。
常に実戦を想定するオシムにしては珍しく、守備役をつけない攻撃練習だった。2人でパスをつなぎながらゴールに迫る。ここぞというタイミング、ここぞというスペースを見極めて3人目が飛び出し、シュートを放つ。
指示は「敵が守っていると想像しながら、アイデアを出せ」。
すると、「ルール破り」となる4人目の攻撃参加をうかがう選手が、立て続けに現れた。
隙あらば、オレも。ピッチは緊迫感に包まれる。しばらく経って守備役が配置された。攻撃側のアイデアがさらに研ぎ澄まされていったのは、言うまでもない。
何かにつけて臨機応変さを求めるオシムは、自主的なルール破りを歓迎した。チーム発足時、そんな動きを見せたのは、彼がジェフ千葉監督時代に手塩にかけたまな弟子たちだけだった。
「攻めるセンターバック」としてオシムに攻守両面で期待されていたDF田中マルクス闘莉王(浦和レッズ)らが、徐々に同調していった。「ブラボー!」とオシムを喜ばせる回数が増えていった。
やがて、ルール破りというオシムの流儀は「日常」になっていた。
試合中に選手が目まぐるしくビブスを着替える衝撃の紅白戦もありました。そんなオンリーワンなオシム流の練習を選手は吸収し、アジアカップに挑みます。そして波瀾万丈の大会を終えた2年後、サラエボを訪ねた記者に、オシムさんは日本代表への誇りと愛情たっぷりの言葉を語ってくれたのでした。
代表のサッカーを語る選手の言葉も、「考える」「走る」から、より具体的になっていった。
「すべての基本にあるのは…
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