第14回色がついた人物画、絵画史研究の転機に 東大大学院准教授の増記さん
1972年に発見された高松塚古墳壁画(奈良県明日香村)は、古代史ブームを巻き起こしただけでなく、考古学や美術史の研究にも大きな影響を及ぼした。文化庁にいたときに壁画に携わった東京大大学院准教授(仏教絵画史)の増記(ますき)隆介さん(47)に聞いた。
――高松塚古墳壁画は何が特別なんですか。
「古代の日本絵画は仏教絵画が中心でした。法隆寺金堂壁画というアジアの仏教絵画の至宝が、1949年に焼けて傷んでしまいます。その後、古代の絵画の研究は進みませんでした。仏教絵画でないものが残っていなかったからです」
「そこに高松塚から、世俗的な絵画が出ました。寺院ではなく、考古学的な遺物から本格的な絵画が出たのは初めて。しかも状態がよく、色がついた人物画です。それまでは、1300年前の飛鳥時代の人々がどんな服装でどんな髪形をしていたのか、イメージすることすら難しかったのが、できるようになりました」
「72年より前の日本絵画史が、高松塚によって書き換えられることになります。高松塚がある美術史をもう一回、考え直していこうと。日本古代の絵画史を考えるうえで非常に重要な壁画です」
――どんな研究がされてきたのですか。
「発見当初は考古学的な関心が主流でした。どのように古墳がつくられ、誰の墓なのか。それがだんだんと壁画としての意味を考えるようになります。絵画史のなかで捉えられるようになる。制作時期について、服や装飾品がいつの制度を反映しているのか、中国や朝鮮半島の壁画との関わりはどうかといった点から研究が進められました」
「壁画を守っていくために、国宝に指定する機運も高まります。指定するには、壁画の価値づけをしなければならず、研究が進められました。でも、発見から2年後の74年に国宝になったころからは、ほとんど進んでいません」
――どうしてでしょう。
「実際に壁画を見られなかったことが一番大きかったです。研究者でも限られた人しか見られない。美術の研究には形と表現の問題があります。形の問題では何を表しているのか、表現ではどう描いているのか。形は写真でもわかるが、線の濃さ、絵の具の色、塗り方など、表現は実際に見ないと語れないのです」
研究は停滞した
「83年にキトラ古墳で四神や十二支像が見つかりましたが、性格が異なります。キトラには人物像がない。結局、高松塚に匹敵する壁画はなく、『孤高の存在』になります。実際に見られない、ほかと比べられないことから、高松塚の研究は停滞しました」
「高松塚を卒論で取り上げたいという学生がいたら、ふつうは止めます。別のテーマにしたらと言う。ただ、72年の発見当時と比べ、中国で唐の時代の墓から壁画が出ています。形や規模を中国の作品と比べるという観点での研究なら、できるかもしれない」
東京大大学院准教授の増記隆介さん
ますき・りゅうすけ 1974年、茨城県出身。東大文学部卒。東大大学院で美術史を学び、奈良市の大和文華館学芸部員、文化庁美術学芸課文部科学技官、同文化財調査官などを務めた。2013年に神戸大大学院准教授、21年に東京大大学院准教授。法隆寺金堂壁画保存活用委員会の美術史班の座長。
――中国の影響をみることができますか。
「中国が政治・文化の中心だった時代です。中国にならうことで、古墳に葬られた人の強い権威を保てる。たとえば四神を描くというスタイルは中国の壁画に基づく。そういう壁画として備えるべき型式は、高松塚でも守られています」
日本的に昇華している
「でも、高松塚の人物像は日本的です。男子群像、女子群像から唐の壁画をイメージするのは難しい。唐の壁画と比べると、その規模や描き方が違う。唐の壁画は巨大な墓に描かれていて、線に勢いや力強さ、大陸的な雄大さがあります。一方、高松塚は小さい。狭い墓のなかで描いたとは思えないほど丁寧で繊細です。唐の様式を受け入れているが、それを日本的に昇華し、日本人の好みに合うように描いています」
「日本の絵画の特質があらわれるのは、遣唐使が中断され、唐との国交を失った平安時代の10世紀くらいからと言われてきました。それまで唐の美術をお手本にしたが、いったん唐から離れて、日本的な絵画が生まれたと考えられてきた。だが高松塚を見ると、平安時代の国風文化以降に日本化が起きたわけではないことがわかります。高松塚の時代には、すでに、外から入ってきた文化を受け入れて日本的に発展させるという、現代にも通じる国民性がみてとれます」
――壁画を描いたのはどんな人ですか。
「当初は、黄文本実(きぶん…