「民主主義よりコンチクショウ」の覚悟 密約事件、半世紀の宿題
半世紀前の1972年5月15日、アメリカの施政権下にあった沖縄が日本に復帰した。その約1カ月前、一人の新聞記者が逮捕された。外務省の機密電信文を女性事務官から入手したことが、「秘密をもらすようそそのかす罪」(国家公務員法違反)に問われた。電信文は、沖縄返還をめぐる密約をうかがわせるものだった。逮捕について、国民の「知る権利」を阻むものとの反発が広がった。だが、記者が男女関係を通じて機密を手に入れたとわかると、風向きは一変した。メディアの追及は鈍り、記者と事務官はいずれも有罪となった。ジャーナリズム史に残る事件から25年あまりして、密約を裏づける米公文書が見つかった。その後、当時の外務省高官が証言し、司法も密約と認定した。にもかかわらず、国は半世紀たったいまも認めていない。一方、かつて密約に迫った記者は新聞社を去り、90歳になった。国の噓(うそ)を許しているのは、メディアの責任ではないか。世紀をまたいで積み残された「メディアの宿題」をたどる。(諸永裕司)
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長い間、「外務省機密漏洩(ろうえい)事件」あるいは「西山事件」と呼ばれてきた。
いずれも、秘匿しておきたい情報を暴かれた権力側が論点をすり替え、記者の取材手法を問う視点からの名称といえる。
しかし、本質は違う。政府が国民への説明を避けて密約を結び、国会で噓をつき通したことにある。
だから、私は「沖縄密約事件」と呼び直すことから始めた。
ただ、取材を始めた当初からそう意識していたわけではなかった。それどころか、事件についてほとんど知らなかった。
2005年春、当時、所属していた社会部のデスクから声をかけられた。
「毎日の元記者が提訴してたでしょ」
あわてて新聞をめくってみると、第3社会面の最下段に39行のベタ記事があった。死者107人を出したJR福知山線脱線事故の翌日の朝刊。毎日新聞政治部の記者だった西山太吉氏(当時73)が国を相手取り、損害賠償と謝罪を求めて東京地裁に提訴した、と伝えていた。
訴えは、2000年や02年に米公文書で沖縄返還をめぐる密約が裏づけられても、政府が否定を重ね、名誉毀損(きそん)を続けていて耐えがたいというものだった。
「記者会見はせず、取材も受けるかわからない」
そう聞いて、にわかに興味がわいた。
ふたつの「なぜ」に惹かれて
事件から30年たってなぜ、いま立ち上がったのか。それでいて、なぜ沈黙を守るのか。私はふたつの「なぜ」に惹(ひ)きつけられた。
社内の調査部に足を運び、新聞記事の切り抜きファイルを繰った。
沖縄返還直前の1972年春、横路(よこみち)孝弘議員(当時、社会党)が衆院予算委員会で外務省の秘密電信文の写しを手に、密約があると政府に迫った。電信文には、米側が支払うとされた軍用地の原状回復補償費400万ドル(約12億円)を日本側が肩代わりすると読めるやりとりが記されていた。
〈米側は財源の心配までしてもらったことは多としている〉
〈問題は実質ではなくAPPEARANCE(みせかけ)である〉
しかし、政府は一貫して否定した。
電信文は、西山氏が外務省の女性事務官から入手し、疑惑を指摘する記事を書いたものの事態が動かないことから横路議員に流したのだった。
まもなく、政府は電信文に審議官より上位の決裁印がないことを確かめ、そこから情報源が絞り込まれたとされる。
「『ひそかに情を通じ』という言葉を私が思いつくと、(検察)幹部は喜んでね」。 2005年に記者が報じた元担当検事の告白は、事件の本質を示すものでした。しかし翌日、西山さんは「あんたは、また昔のことをほじくりだすのか」とまくし立てます。その言葉の裏に、どんな思いがあったのか。記事後半でお伝えします。
国会追及から8日後、警視庁…