私たちは「豊中学校」で学んだ 復帰前、沖縄から職員受け入れ

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武田肇
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 沖縄が米国の統治下にあった1960~70年代、コザ市(現・沖縄市)ののべ約120人の職員が日本式の地方自治を学ぶため、大阪府豊中市で研修した。異例の取り組みは「豊中学校」と呼ばれ、両市が「兄弟都市」として交流を続ける土台となった。沖縄の本土復帰50年で、その意味が改めて注目されている。

 「私たちを預かってくれた豊中には言い尽くせないほどの恩義がある。何かお返しできないかと考えているうちに、こんな年齢になってしまった」

 元沖縄市職員の幸地(こうち)光英さん(85)は8日、大阪から訪ねた記者にこう語り、目を潤ませた。手元には「昭和40年11月1日現在」と記された豊中市の職員録と、当時本土へ行くために必要だったパスポート。ずっと保管してきたという。

沖縄の本土復帰前、広大な米軍基地を抱えるコザ市(現・沖縄市)から職員延べ約100人が日本式の地方自治を学ぶために大阪府豊中市で研修しました。「基地の街」から大阪に来た職員は何をめざし、何を残したのでしょうか。「豊中学校」と呼ばれた異例の研修の秘史を追いました。

 東京五輪の翌年にあたる65年12月、コザ市計画課職員だった幸地さんは、数人の同僚と「豊中学校」に1期生として派遣された。当時29歳、2人目の子が生まれたばかりだった。

異例の研修の背景に、米軍統治下での「遅れ」

 「復帰前の沖縄の自治体は形ばかりで、予算もノウハウも足りない。本土の自治体で先進的な行政事務を学ぶことが目的だった」

 沖縄本島中部に位置するコザ市は戦前は農村だったが、戦後、人口が急増した。極東最大級の米空軍の拠点となった嘉手納基地などの建設に伴い、多くの人が職を求めて移住した結果だった。急速な都市化の一方で、新しいまちづくりは遅れていたという。

 豊中市役所では建設部都市計画課都市開発係に配置され、土地区画整理事業を実地で学んだ。

 当初3カ月だった研修期間は6カ月に延びた。本土と沖縄の経済格差が大きく、豊中市が研修者用の宿舎を用意し、給与を支払った。持ち帰った資料はバインダーで23巻になり、「その後の建設行政の知恵袋になった」という。

忘れられない銭湯でのひと言

 うれしかったのは、市幹部の自宅に招かれ、妻の手料理を振る舞われたことだ。一方、仕事帰りに立ち寄った銭湯でお年寄りに「沖縄から来ました」と明かすと、「朝鮮みたいなもんやな」と言われたという。「聞き流したが、今でも忘れることができない」

 航空測量技術を利用した道路台帳づくり、上下水道の整備、窓口業務の効率化など、「学校」での研修は多岐にわたった。沖縄に戻った卒業生たちはその成果をインフラ整備や市民サービスの向上に生かした。

 コザ市では日本復帰を1年5…

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