第2回遊び場は米軍機飛び交う滑走路に 返還の希望砕いてきた「条件」とは

有料会員記事沖縄・本土復帰50年

国吉美香
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 強い日差しの下、子どもたちが運動会の練習のためリレー競走をしている。長い滑走路は、思い切り走るのにうってつけの場所だった。

 仲村隆さん(71)が、小学校低学年のころの、米軍普天間飛行場宜野湾市)の光景だ。戦争が終わって10年以上が経った1950年代後半のこと。飛行場の周囲に、今のような金網はなかった。

 「出入りは自由。学校帰りに集まる『遊び場』で、戦闘機がとまっているのは見たことがなかった」と、当時も今も、近くで暮らす仲村さんは言う。

 市の記録によると、金網フェンスの設置が始まったのは62年。仲村さんが小学校高学年のころ。ヤギのエサのために滑走路周辺に生えた草を刈り取る人たちや、洗濯や水浴びで泉に集う人たちの姿は次第に消えていった。それでも、高校のころまでの記憶に、激しい騒音はないという。

連載初回はこちら)基地はなぜ動かないのか 沖縄復帰50年

沖縄の基地問題はなぜ、大きく進展しないのか。基地集中はどのようにしてできあがり、いまにいたるのか。その構造や背景をときほぐし、日本にとって沖縄復帰50年とは何か、を考えます。

 65年、米国はベトナム戦争に本格介入し、沖縄の基地は出撃や補給の拠点として使われる。しかし、60年代後半になると、米国防総省内では普天間閉鎖を含む在沖海兵隊の撤退計画も浮上していた。

 普天間はいつ、どのようにして、いまの姿へと変わったのか。

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