第2回遊び場は米軍機飛び交う滑走路に 返還の希望砕いてきた「条件」とは

強い日差しの下、子どもたちが運動会の練習のためリレー競走をしている。長い滑走路は、思い切り走るのにうってつけの場所だった。
仲村隆さん(71)が、小学校低学年のころの、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の光景だ。戦争が終わって10年以上が経った1950年代後半のこと。飛行場の周囲に、今のような金網はなかった。
「出入りは自由。学校帰りに集まる『遊び場』で、戦闘機がとまっているのは見たことがなかった」と、当時も今も、近くで暮らす仲村さんは言う。
市の記録によると、金網フェンスの設置が始まったのは62年。仲村さんが小学校高学年のころ。ヤギのエサのために滑走路周辺に生えた草を刈り取る人たちや、洗濯や水浴びで泉に集う人たちの姿は次第に消えていった。それでも、高校のころまでの記憶に、激しい騒音はないという。
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