鉄道と歩んだ40年 南宮崎駅の食堂「ライオン」閉店へ

大畠正吾
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 宮崎市のJR南宮崎駅構内で約40年間にわたり、中西幸一郎さん(78)、米子さん(80)夫妻が営んできた食堂「ライオン」が、まもなく閉店する。多くの旅行客や駅で働く人たちに宮崎の味を提供し、鉄道の歴史とともに歩んできた名物食堂。夫妻は店を継いでくれる人を募っており、後継者にバトンを渡してから引退するつもりだ。

 「さびしくなるなぁ。ここのハンバーグ定食はほかでは食べられないよ」。大型連休のある日、食事を終えたバス運転手の男性が幸一郎さんに話しかけた。ホーム側に開けた大きな窓からは特急「にちりん」が発車する様子が見えた。

 店にはいま、閉店を知った県内外の人が「やめる前にもう一度食べたくて」と訪れている。「ライオン」に来るためだけに飛行機で来県したと話す人もいたという。「小さな店だけど、愛されていたんですね。ありがたい」。幸一郎さんは笑顔をみせる。

 「ライオン」は1983年ごろ、レストランチェーン「日本食堂」のあとをつぐ形で開店した。チキン南蛮やチャンポンなど30種類以上のメニューが並ぶ。一般社団法人「全日本司厨士(しちゅうし)協会」から「優秀」と認定された味と、「おなかいっぱい食べてほしい」という盛りの良さが自慢だ。

 店を閉めようと思ったきっかけは、米子さんの「やめたい」という言葉だった。正月と年2回の夫婦旅行以外は、ずっと休まずに働いてきた。「女房がきりのいい年齢になるので」と決めた。

 鹿児島出身の幸一郎さんは中学を卒業すると上京し、「サッポロライオン」のレストランで3年間修業した。19歳のときに「日本食堂」に入り、宮崎駅と南宮崎駅にあった店で働き始める。

 就職した理由は「食堂車に乗りたかったから」。地方と東京を結ぶ寝台特急が花形列車で、多くに食堂車が連結されていた時代。日本食堂のコックは、東京行き「富士」などに交代で乗った。幸一郎さんも揺れる食堂車内でステーキを焼いた。「急ブレーキがかかると棚の鍋やトレーが落ちないように懸命に押さえた」

 宮崎県西都市出身の米子さんは日本食堂のウェートレス。車内販売も担当した。「あのころは乗客が多くて、人をかき分けながらワゴンを押した。楽しかったなぁ」

 日豊線と日南線が乗り入れる南宮崎駅は利用者が多く、店はにぎわった。従業員も雇っていたが、国鉄民営化後の96年に宮崎空港線が開通。空港へ行く人が南宮崎駅でバスに乗り換える必要がなくなり、駅の利用者は減った。しかし、いまも店は駅周辺で働く人や住民に支えられ、地域に欠かせない存在だ。「本当はもう少しやりたいんだが」と幸一郎さん。

 店は今月末まで、事業承継支援会社が開設するマッチングプラットフォーム「リレイ」で後継者を募集している。テーブルやイス、厨房(ちゅうぼう)の調理道具などは譲る予定だ。「やる気がある人に引き継いでもらえたら」と幸一郎さん。

 約60年間、鉄道とともに働いてきた2人。米子さんは「ゆっくり休みたい」。幸一郎さんはそんな妻を「本当にがんばってくれた」とねぎらった。(大畠正吾)

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