フラットにぶつかる欧州 柳田将洋と竹内智香が苦労し、成長したこと

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構成・木村健一
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 バレーボール元日本代表の柳田将洋(29)=サントリー=は3年間、ポーランドやドイツでプレーした。冬季五輪スノーボードで2002年から6大会連続の出場を果たした竹内智香(38)=広島ガス=はスイスへ渡り、飛躍した。海外での苦労や文化の違い、そして日本代表への思いをオンラインで語り合った。

 竹内は14年ソチ五輪で銀メダル。5位入賞の18年平昌五輪の後、一度競技から離れた。20年に復帰し、今年2月の北京五輪に出場した。

竹内 競技者として戻った生活はすごく楽しくて、充実していました。北京五輪限定と決めての復帰だったけれど、思いの外、今までにない競技との向き合い方がすごく楽しくて。競技をするか、引退するかという選択肢だけではなく、いろんなことをやった先にレースに出られるのであれば、(今後も)出たいですね。技術を維持、向上させていきたい気持ちもあるし、12月からのワールドカップ(W杯)に出られるような状況であれば、出ていきたいです。

柳田 今年で30歳になるので、少なからず「競技をどこで終えるか」「一区切りつけるか」と考えている。「引退」という文字に敏感にもなっている。競技を続けるかは、本当に自分次第。やりたい時にやれれば、一番リラックスして取り組める。

 竹内は「オリンピックが大好き」と言う。どんな魅力があるのか。

竹内 私たちの種目はマイナーで、プロリーグがあるわけでもないし、4年に1回の五輪でしか、なかなか見てもらえる機会がありません。五輪はお祭り騒ぎのような雰囲気。今回(の北京)はコロナでそういう雰囲気ではなかったけれど、独特な緊張感はありました。やってきたことをパズルのように(本番の)一日に合わせていく作業が好きです。

 一つ一つの大会にいろんな意味がある。初めて参加した(2002年の)ソルトレークシティー五輪は「経験」。そこから3大会メダルを取れずに足踏みをして、4大会目でメダルを取って、喜んでもらえる証しが残り、北京では、スノーボードや五輪が人生の全てではないということも知れました。6大会目をめざしたからこそ、今の向き合い方があります。

 竹内がスイスへ渡ったのは、06年トリノ五輪の後。日本代表から漏れたことが理由だった。柳田は17年からプロとなり、欧州で3季プレーした。

竹内 どんなに努力してもステップアップできなくて。「自分だけの責任じゃなく、日本の環境が足踏みの原因になっているかもしれない」と感じました。代表から外れたので「これはチャンスだ」と。高校生の頃から、海外でやってみたいという思いもあり、強い国の練習環境で最後の挑戦をしようと決めて、行きました。

竹内智香(たけうち・ともか)

1983年12月生まれ、北海道旭川市出身。98年長野オリンピック(五輪)をテレビ観戦し、「五輪に出場したい」と本格的にスノーボード競技の道へ。高校3年で2002年ソルトレーク大会に出場し、06年トリノ、10年バンクーバー、14年ソチ、18年平昌、22年北京と、冬季五輪では日本女子史上最多の6大会連続出場。14年ソチ大会は銀メダルを獲得し、15年は世界選手権で銅メダル。19年には、北海道東川町に拠点を置く選手育成と普及のためのクラブ「&tomoka」を立ち上げた。広島ガス所属。

 苦労と感じさせてもらえないぐらい大変でした。生きていくこと、語学の勉強、目の前で起きるすべてのことを乗り越えるのに、精いっぱいすぎて。最初の1年はドイツ語や英語の勉強も大変。10週間、現地の語学学校に通いました。スイスは物価も学費が高く、その後はお金もないので、チームのみんなに教えてもらいながら独学で覚えました。好きなドイツ語は、「Locker bleiben」。柔らかい言葉で「楽しくゆるく行こう」というような意味です。

柳田 環境を変えることは大事。日本代表に入りたいと思って、海外へ行った。文化をはじめ、吸収できるものが変わった。よく「国内でやれることはたくさんある」と言われるけれど、海外に行った人にしか分からない。視野も広がった。語学はインターネットで勉強。ドイツ語教室に連れて行ってもらったけれど、分からなくて。ドイツ語はRの発音が特殊。「マサヒロ」と呼ばれる時は、「何を言っているんだろう?」とびっくりするぐらいでした。

柳田将洋(やなぎだ・まさひろ)

1992年7月生まれ、東京都出身。186センチ、80キロの右利きのアタッカー。東京・東洋高では2010年の全国高校選抜バレー(春高)で初優勝。慶大在学中に日本代表入りし、14年10月にVリーグ・サントリーに入団。15~16年シーズンに最優秀新人賞を獲得。17年にプロに転向して欧州へ渡り、17、19年はドイツ、18年はポーランドのプロリーグでプレー。2020年に古巣のサントリーへ復帰し、20~21年、21~22年シーズンの連覇に貢献。18年から21年3月まで日本代表の主将を務めた。東京五輪は直前に代表から外れ、出場を逃した。

 ジュニアの指導法から練習、指導者の接し方まで違いがあった。

竹内 日本は最初に曲がり方をはじめテクニックを学ぶけど、欧州(選手は)は粗削りで、磨かれていないダイヤモンドみたい。私はジュニアの頃、きっちりとテクニックを学んだので、欧州では「フォームのきれいさは教科書みたい」と褒められたけど、粗削りなスピード感を身につけるのは大変でした。

竹内智香が卵子の凍結保存を決断した思い、柳田将洋がコロナ下で子どもたちに開いたオンライン教室で感じたこと、そして欧州での2人の気づき…。1時間に及んだ対談の話題は多岐にわたりました。

柳田 海外の監督には、こんな…

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