吉田秀和、最初で最後の「相撲展望」 生身の肉体を文章修行の礎に

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 幼いころから相撲に親しんでいた吉田秀和さんは、「ほんとうは相撲評論家になりたかった」としばしば語っていました。実体のない音ではなく、究極の生身の肉体のぶつかり合いをつぶさに観察し、ことばでさまざまに表現してみることから吉田さんの文章修業は始まりました。

 2011年2月、角界が八百長疑惑に揺れていた時のこと。「音楽展望」の欄を使って、思う存分相撲のことを書いてくださいとお願いしてみました。3日と待たず出てきた原稿は、音楽の「お」の字も出てこない、正真正銘の相撲評論でした。生き生きと躍動する筆で描かれてゆく相撲の本質は、芸術のそれと、おのずと重なっていくように感じられました。

 吉田さんの生涯唯一の「相撲展望」、いま一度お楽しみください。(編集委員・吉田純子)

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吉田秀和「音楽展望」ああ相撲! 勝ち負け、すべてではない 2011年2月19日夕刊文化面掲載

 私は一九一三年(大正二年)東京日本橋の人形町界隈(かいわい)に生まれ育った。そのころはまだプロ野球もなく、子供のスポーツの話題といえば相撲が専らだった。

 思い出す、まだ小学校に上がる前のある正月、例年の如(ごと)く大工の棟梁が年賀の挨拶(あいさつ)に来て、もてなしの酒で上機嫌になり、物珍しさに顔を出した私をつかまえて相撲談議。

 「坊ちゃんも相撲は好きでしょう? 相撲は何たって梅常陸。西と東の横綱が楽日に顔をあわせる。待った数回、やがて呼吸があって立ち上がると、差し手争いで揉(も)み合った後、ガップリ四つに組むと動きが止まる。立行司の庄之助がそのまわりをまわりながら『ハッケヨイ』のかけ声も高く気合を入れるが、小山のような二人の巨体はいっかな動かない。その姿は錦絵そのまま。いや見事なものです。横綱の取組はこう来なくちゃいけません……」

 彼にいわせると、相撲は勝ち負けがすべてではない。鍛えに鍛えて艶(つや)光りする肉体同士が全力を挙げてぶつかる時、そこに生まれる何か快いもの、美しく燃えるもの。瞬時にして相手の巨体を一転さす技の冴(さ)え、剛力(ごうりき)無双相手をぐいぐい土俵の外に持ってゆく力業。そういった一切を味わうのが相撲の醍醐味(だいごみ)。それに花道の奥から現れ、土俵下にどっかと座り、腕組みして自分の取組を待つ姿から土俵上の格闘を経て、また花道をさがってゆく。その間の立ち居振る舞いの一切が全部大事なのだ。

 これがおよそ私の受けた最初の相撲に関するレッスンであり、この時の話は酒臭い息の匂いと共に今も私は忘れない。

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 とはいえ、相撲はボディー・ビルではなく、格闘技であり、勝敗を度外視するわけにはいかない。身体を鍛え、技を磨くといっても、目ざすところは勝利にある。そのための日常の精進であり、土俵上の奮闘である。要するに、美しさと力強さの両立が理想なのである。

 私の幼いころ、相撲はむしろ歌舞伎につらなる興行だった。現に相撲は歌舞伎の演目にも組み入れられ、舞台の上で火消しと争ったりした。また寛政の大力士谷風だったかが、貧しい親孝行の力士のため星を譲ってやるとかいう講談の人情話の種になったりもした。

 それに当時は際どい勝負とか、長引いて力士が取り疲れたりした場合は、無理やり白黒をつけず、勝ち星は預かりにするとか、「この勝負引き分けに候」とかいう判定も許されていて、それも全く稀(まれ)ではなかった。結局、どっちが勝つでも負けるでもない決着だが、それで当事者も観衆(世間)も納得していたのだ。それから立ち合いの睨(にら)み合い、これも五分だ三分だといった時間制限はなく、力士によっては随分長いこと立ったりしゃがんだりする癖のあるものもあったが、場内の人々は――酒を飲んだり弁当を食べたりしながら――辛抱強く勝負の開始を待っていたものである。

 それが時代の好み、社会の要請に従って、相撲もほかの近代的スポーツ一般に歩調を合わせ、勝敗の帰趨(きすう)に焦点を合わせるように次第に変容変質してゆく。勝敗に拘泥しないような取組には精神の緊張がみられなくなり、緊張の欠けた巨体のぶつかりあいは、むしろ、醜く見るに堪えないものになる。

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 相撲は近代スポーツたるべく、改良努力してゆく。それが遅々として進まなかったり、中途半端だったりして見えるので、外部から「封建的だ」「前近代的だ」と非難され、協会の内部からも、力士たちに待遇改善を迫られ(一九二三年「三河島事件」)、勝負判定、運営の公明正大を望んで集団脱退、新団体結成(三二年「天竜事件」)などいろいろの波瀾(はらん)があったりしたが、相撲は今日まで生きのびてきた。

 かつては「一年を二十日で暮らすよい男」などと呼ばれた力士たちは、次々と興行日数を増やし、一場所十五日制、年六場所、計九十日の本場所の労働に耐えながら、栃木山、双葉山、栃錦、若乃花等々さまざまのタイプの人気力士をつぎつぎ生み出し、あの苛酷無慚(かこくむざん)な世界大戦をも耐え凌(しの)いできた。

 しかし、これは当事者たちの絶大な工夫努力の賜物(たまもの)であると共に、日本の社会の中に相撲を愛し、支える力が働いていたからでもある。それを忘れてはいけない、と私は考える。

 私は思い出す。かつて柏鵬時代ともてはやされたころのある日、柏戸が例によって無二無三相手を土俵際まで追いつめ、相手もろとも土俵下に転落した。しばらくして起き上がってきた彼を見ると顔面蒼白(そうはく)、左手で右肩を大きく抱えていた。右肩を骨折したのだ。時の理事長時津風親方(かつての双葉山)は「柏戸の体は瀬戸物か」と呆(あき)れたそうな。

 彼はそのまま休場、何場所も続けて。ようやく復帰した場所は、長い休場で相撲勘が鈍ったろうにという心配をよそに、初日からとかくとりこぼすうるさい相手にも快勝。そのまま勝ち星街道をつっぱしり、千秋楽、これまたきれいに白星を重ねてきた大鵬と顔を合わせると、ガップリになって強引に寄り進み、土俵際を粘って回りこむ大鵬を寄りつめ寄りつめ、ついに寄りきった。久しぶり優勝杯を手にした彼の姿が翌日の新聞に大きくのった。

 そこに石原慎太郎氏が「八百長だ!」と声をあげ「この日までの全く安定した大鵬の勝ちっぷりをみれば、柏戸の勝利は信じ難い」と非難した。戦った両人は口を揃(そろ)え、「いや、我々は全力を尽くして戦った」と反論したが結局は水かけ論。話は示談に落ちつき、世論もいつとはなしに沈静化した。

 私は「オヤッと思ったのはその前にもあったがな」と思ったものである。

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 楽日の優勝をかけた熱戦といえば、ある年の大阪春場所での貴ノ花と北の湖の一戦も忘れ難い。当時の北の湖は「憎らしいほど強い」といわれ、実力抜群。一方、貴ノ花は猛稽古で鍛えた強靱(きょうじん)な足腰と技の冴(さ)え。貴公子然とした容姿で絶大な人気を博していたが、相手の大太刀に対して細身の剣のような感があり、勝つにはどうかと思われたが、それがまた観衆の判官びいきの熱を一層高める。そんな中で、かなり長い攻防の末、勝ち名乗りを受けたのは貴ノ花だった。その時の満場の歓呼、歓喜の沸騰の凄(すさ)まじさ! あれはもう喜びの陶酔、祭典だった。あとで北の湖は「四方八方、耳に入るのはみんな相手への声援ばかり」といっていたが、私はTVを前に「北の湖、よく負けた」とつぶやいた。

 今相撲は非難の大合唱の前に立ちすくみ、存亡の淵(ふち)に立つ。救いは当事者の渾身(こんしん)の努力と世論の支持にしかない。

 あなたはまだ相撲を見たいと思ってますか。(音楽評論家)

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 過去に掲載された「音楽展望」は現在、講談社電子書籍で読むことができます。kodansha.co.jp(講談社)で試し読みもできます。