米軍基地はこうして残された 元駐米大使が語る沖縄返還の舞台裏
沖縄に基地があるのではなく、基地の中に沖縄がある。そう表現されたほどの巨大な米軍基地を、1972年5月15日の復帰までにどう減らすか。のちに駐米大使となる加藤良三さん(80)は沖縄返還交渉の当時、外務省北米一課員としてその任にあたりました。しかし米国との交渉はしょっぱなから難航します。沖縄復帰50年にあたり、舞台裏をふりかえっていただきました。
――加藤さんにとっての最初の《沖縄体験》を教えてください。
「小学生のころ、秋田に疎開していました。ちょうちょなどが好きでよく図鑑を眺めていたのですが、雪深い地方だけに暖かい亜熱帯へあこがれていました。南にはヤクシマミドリシジミやヨナグニサンといった種類がいます。どんなところだろう、と想像して楽しんでいました。当時、沖縄は自由に行ける場所ではありません。沖縄へ初めて行ったのは、のちに北米一課員になってからです」
――外務省へ入った後、米エール大学法学院への留学や在米大使館勤務を経て、北米一課へ異動になられたのは1969年でした。
「70年の年明けごろから、北米一課の沖縄班長として返還交渉に本格的にかかわり始めました」
――佐藤栄作首相とニクソン米大統領は69年11月に《72年中に沖縄を返還する》と合意します。その直後ですね。
「はい。大変タイトなスケジュールなうえに、千葉一夫課長は使命感が強く、ものすごく厳しかった。班員は6、7人だったと思います。復帰当日の5月15日はどう過ごしていたかなあ? 忙しさで疲れ切って、あまり覚えていないですね」
――具体的には、米軍基地の整理統合にどう取り組んだのですか?
「沖縄にいくつ米軍基地があるのか、数えるところから始めたんです。そもそも、沖縄のどこにどんな基地があるかを、こちらは知らない。米側にリストを出してもらいました」
「出てきた長大なリストを、一つひとつしらみつぶしに精査する。たとえばバックナー・メモリアル・サイトという記念碑がありました。バックナーは沖縄戦の米司令官です。米軍はこんなものも基地とみなしている。基地から少し離れた場所の電信柱も、単独の施設として数え上げていたりする。『これはどう見ても基地ではないでしょう』などとやりとりして、まさにFrom scratch、ゼロからのスタートでした。交渉の土俵づくりから始めたわけです」
――《在沖米軍の実態を早急に把握する要あり》と外務省条約課が警鐘を鳴らした文書が残っています。
「基地の実態がわからないので、70年と71年には現地調査に行きました。基地のゲートをくぐるとアメリカの匂いがして『アメリカに戻ってきたなあ』と感じたのが印象に残っています。一方、ゲートの外を見ると、人が住むずいぶん近くに基地があるのに驚きました」
――沖縄にある米軍基地の削減にむけて、日本側はどんな原則をたてていたのですか?
「米軍基地を大きく返還させ…
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