第2次大戦中、神奈川県内で最大の被害が出た横浜大空襲から29日で77年となる。子どものころに空襲に遭った人たちは、いまも「あの日」のことが忘れられない。ウクライナでの戦争に心を痛めながら、自らの経験を若い世代に伝えようとしている。
雲ひとつない青空が広がっていた。1945年5月29日。横浜市南区白金町に住んでいた金子彰さん(85)は小学3年生だった。同級生たちは箱根に集団疎開していたが、体が弱く横浜に残っていた。
「ウーウーウー」。午前8時、布団で寝ていると、空襲警報が流れた。寝間着から着替え、枕元に置いていた防空ずきんをかぶり、同居の伯母やその子ども2人と防空壕(ごう)へ逃げた。
60~70人くらいが集まっていた。防空壕に入ってからしばらくして外を見ると、B29から焼夷(しょうい)弾が落とされるのが目に入った。「まるで雨のように降ってきた」。焼夷弾は近隣の家や防空壕の前にも落下した。「花火みたいできれいだな」。子ども心にそんな思いで見ていた。
「戦争で得することは一つもない」
空襲から少しすると、防空壕…