静御前が迷った思案橋の伝説 義経の死を知り、行こうか戻ろうか

平畑玄洋
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 NHKの大河ドラマ鎌倉殿の13人」から目が離せない。源義経は鮮烈な印象を残して去った。ドラマにも登場する愛妾(あいしょう)の静御前にまつわる伝説が茨城県古河市にもあり、銅像が立っていると聞いた。義経がいない喪失感を埋めようと現地へ向かった。

 銅像が立っているのは、古河市下辺見(しもへみ)の「トモヱ乳業」。広報の広沢健さん(41)に案内してもらうと、笠をずらして遠くを見やる静御前の姿が見えた。公園のような一角は340平方メートルほどの広さで芝生に覆われ、ベンチがある。

 乳業・飲料メーカーが、なぜ静御前の銅像を建てたのだろうか。社長室長の中田喜代司さん(70)によると、創業者で前社長の中田俊男さん(故人)の発案で、創業50周年を記念して2007年に建てた。

 古河商工会議所など地元経済団体の役員を歴任した前社長は、地域活性化のために人を呼び込む方策を模索していた。歴史好きでもあった前社長が思いついたのが静御前の顕彰と観光スポットのPRだった。

 銅像の近くには向堀川に架かる思案橋があり、静御前の伝説が残っている。

 1185年、兄頼朝に疎まれた義経は京から逃走。その途中、吉野で静御前と別れた。静御前は捕らえられ、鎌倉で産んだ義経の子を殺され、京に帰された。その後の消息は分かっていない。義経は平泉(現岩手県)に逃れたが、89年に身を寄せた奥州藤原氏の軍勢に急襲されて自害した。

 伝説では、静御前は義経を追いかけてこの橋までやってきた。だが訃報(ふほう)を受け、そのまま平泉に向かうか戻るか、橋の上で思案に暮れたという。

 静御前をめぐる伝説は、奈良県兵庫県など全国各地に残る。

 「実は思案橋も各地にあるんです」。古河歴史博物館の立石尚之館長(58)が教えてくれた。古河市周辺は鎌倉と奥州を結ぶ位置関係にあるうえ、静御前と関連づけられる地名や遺物が多く残っているため、伝説が根付きやすかったのではとみる。

 「古河には前林(まえばやし)という地名もあり、江戸時代の由緒書きでは、踊りを舞う白拍子だった静御前のイメージから『舞(まい)』『囃子(はやし)』と関連づけられていました」

 同市中田の光了寺(こうりょうじ)には、後鳥羽院から静御前に下賜(かし)されたという舞衣「蛙蟆龍(あまりょう)の御衣(ぎょい)」(非公開)も伝わる。市の文化財だ。前住職の土岐良典(ときよしのり)さん(78)によると、静御前は侍女の琴柱(ことじ)とともに寺に立ち寄った。義経の死を知って悲嘆に暮れた静御前は、思案橋から寺に舞い戻った後に亡くなったという。

 市教委の資料をひもとくと、舞衣の制作年代は明朝末期と推定される。つまり日本では少なくとも室町時代以降と考えられる。静御前の生きた時代とは合わないが、江戸時代には日光街道を往来する諸大名が、古河を通る際に舞衣を見て、その伝説に耳を傾けたらしい。

 立石館長は「舞衣を見せ、その由来を語ることはもてなしの一つだった」と指摘する。大名の中には、その返礼として舞衣を包む袱紗(ふくさ)を寺に奉納したり、舞衣の一部を切り取って持ち帰ったりする者までいたという。

 立石館長は「地元の人たちにとっては郷土の誇りであり、伝説を語ることは不遇な死をとげた人への愛情の表れだったのでは」と話している。(平畑玄洋)

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 〈静御前之像〉 茨城県古河市下辺見1955。国道354号の思案橋西詰め。JR古河駅西口から朝日バス境車庫行き約10分、「思案橋」下車すぐ。