ナイキの厚底1強、崩したアシックス 「頂上攻めよ」創業者の教え
経済インサイド
完敗だった。
2021年1月。東京箱根間往復大学駅伝競走、通称「箱根駅伝」に出場した210人のうち、アシックスのシューズを履いた選手は誰もいなかった。
4年前まで、出場者の3割がアシックスのシューズを履いていた。それが、急に失速し、4年でゼロになった。
この大会で、200人超の選手が履いていたのは、米ナイキ社のシューズだ。17年に投入した「厚底」が、アシックスの地盤を根こそぎ奪い取った。
「ナイキ1強」「箱根からアシックスが消えた」。箱根路の異変が注目を浴びた。
「非常に悔しい思いをした」
三菱商事から18年にアシックスに転じた社長の広田康人は21年6月、シューズの事業説明会で箱根の屈辱をこう振り返ったが、胸の内には反転攻勢への期待を秘めていた。すでに、創業者・鬼塚喜八郎の信念に通ずる「C」と名付けられたある作戦が動いていた。
ナイキの厚底靴、「ヴェイパーフライ」は、一般的な陸上用シューズより1センチほど厚い、35~40ミリの靴底を備えている。
その効果はてきめんだった。
ケニアの選手は非公式ながら世界新記録を更新。18年には設楽悠太、大迫傑が日本記録を相次いで塗り替えた。「厚さは速さだ」。キャッチコピーどおりだった。
「オセロの駒のように、コロコロと変わる音が聞こえた。『黒船』によって全部ひっくり返されたのです」
アシックスでマーケティングを担当する常務執行役員の甲田知子は当時の状況をこう語る。ランニング専門店で店頭の棚から自社のシューズが消え、代わりに「厚底」が並べられていく様を間近でみた。アシックスの契約選手も一人、また一人と離れていった。
19年12月。神戸市にあるアシックス本社4階に、約10人の社員が集められていた。殺風景な会議室で、広田は一言、号令をかけた。
「取り返すぞ」
チームの出身部門は、開発、マーケティング、スポーツ工学研究所、生産、特許を扱う知財担当と、ばらばら。意思決定を早くするため、社長直轄とした。
チームの名は「Cプロジェクト」。鬼塚の言葉「頂上(Chojo)から攻めよ」の頭文字を取った。鬼塚は商品開発にあたり、トップ層の選手のニーズを掘り起こし、それを満たすために試行錯誤を重ねた。使命は、プロのランナーに選んでもらえるシューズをつくることだ。Cプロジェクトは21年夏に延期された東京五輪に照準を合わせた。
「勝てる靴ないなら、選手は紹介しない」
当初、チーム内には「一つ前の製品を改良すればいい」「お店での売り方も考えないと」という意見があった。
リーダーの竹村周平はナイキの「厚底」が登場した当時、中国に赴任していた。18年に帰国すると、自社が「危機的な状況」にあると、にわかに気づいた。シューズのサンプルを履いてくれる選手を探そうにも、「勝てる靴がないなら、選手を紹介しない」と断られることがあったのだ。
「今のままではだめだ。大きく変えなくては」。竹村が立ち返ったのもまた、鬼塚の言葉だった。トップ選手が何を望んでいるのか。尋ねて回ると、返ってくるのは決まって「速く走れるシューズ」という答えだった。
レースの結果で収入が変動する選手は、1秒が生活に直結する。「一言一言に迫るものがあった。これは絶対聞き流したらあかん」。竹村は肝に銘じた。
「速く走る」とは何か。
サンプルを数種類ずつ渡して意見をかき集めると、「走り方が狂ってしまう」という意外な指摘がありました。そこでプロジェクトが進めた社内では異例の開発とは――。
そのしくみを突き詰め、最終…