ウクライナのナショナリズム、戦争の歴史から考える 中井和夫さん

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聞き手・大内悟史
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中井和夫さん|歴史学者ウクライナ史)

 ロシア軍の侵攻に、ウクライナの人々は激しい抵抗を続けている。大切な家族・友人や自分たちの土地を守りたいという思いは、人々の間に強い結束をもたらしているようだ。ウクライナにおけるナショナリズムの歴史と行方について、著書『ウクライナ・ナショナリズム』(東京大学出版会、1998年刊)が今年4月に緊急復刊された中井和夫・東京大学名誉教授(ウクライナ史)に聞いた。

 ――ロシア軍のウクライナ侵攻が始まって3カ月がたった。ウクライナ史の専門家として注目している点は。

 まず、ウクライナとロシアの戦争は今回が初めてではない。18世紀以降に限っても3回起きており、今回の戦争は4回目に当たる。

 第一に18世紀初め、バルト海の制海権をめぐりスウェーデンとロシアが争った北方戦争(1700~21年)だ。スウェーデンのカール12世と結んだウクライナ・コサックの指導者マゼッパとロシアのピョートル1世(大帝)が戦った。戦局を決したのはポルタヴァの戦い(1709年)で、ロシア領に攻め込んでいたスウェーデンと、ロシア側から離れたウクライナの連合軍が敗北を喫した。ポルタヴァはドニエプル川の東側にあるウクライナの都市だ。

 第二に、第1次世界大戦中に起きたロシア革命(1917年)によりロシア領のウクライナで独立や自治の機運が高まり、ウクライナ中央ラーダ(自治評議会)が設立された。同年中にロシアでボリシェビキが政権を握る十月革命が起きると、ウクライナの中央ラーダは事実上の独立を宣言し、ウクライナ人民共和国が成立した。

 翌18年にかけて中央ラーダ軍とロシア側の赤軍が戦った。18年1月にキエフ近郊であったクルーティの戦いは学生主体のウクライナ側が敗北し、キエフは赤軍に占領された。

 中央ラーダは社会主義者から自由主義者まで幅広い勢力の連合体で、反ボリシェビキで一致していた。帝政ロシアのツァーリ(皇帝)やソ連共産党による独裁、現在のプーチン大統領のような専制政治を嫌う人が多いウクライナの政治的伝統を象徴しているように思う。

 ――二つの戦いは、ウクライナでは自国の歴史を決定づけた出来事とされている。独立を果たせずにいる長い間、民族や自治の意識は途切れなかったのか。

 ともにウクライナがロシアに…

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