「基地なき島」願いつつ米軍容認 元村長が夢想する「もしあのとき」

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聞き手・藤原慎一
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 「沖縄の縮図」と呼ばれる島があります。沖縄本島北部に浮かぶ伊江島。1945年の沖縄戦で島にいた住民の半数を失い、戦後は米軍に多くの土地を奪われました。その島がいま、米軍の軍事戦略を支える訓練拠点になっています。89年、村長として訓練受け入れを決めたのは、島袋清徳さん(84)。沖縄戦で兄と祖母を失い、「基地のない平和な島」を願ってきたのに、なぜ。島袋さんに思いを聞きました。

しまぶくろ・せいとく

元伊江村長。1937年生まれ。村役場職員を経て、1989年に村長に就任。2005年まで4期16年務めた。

 ――太平洋戦争末期の沖縄戦で、伊江島は米軍の猛攻を受けました。

 日本軍の飛行場があったために、米軍の標的となりました。6日間の地上戦で3500人もの島民や軍人が犠牲になりました。沖縄本島に疎開していた私たちが帰島を許されたのは、敗戦から2年後です。

 当時10歳くらいだったので、どんな感情だったかは記憶していません。ですが船から一歩上陸したとき、子どもながらに「自分の島じゃないんじゃないか」と思いましたよ。

 まさに、焦土という言葉そのもの。家もガジュマルの木も何もない。あるのはつぶされた畑と軍用車両のわだちだけ。すでに米軍の演習場が造られていました。

 島民は1カ所に収容され米軍からの配給を受けましたが、それだけじゃ足りない。それで芋畑だったところを掘るんですが、出てくるのは人の骨ばかり。やりきれなかったですね。

核の傘」から抜けない被爆国・日本の矛盾 「自分と同じ」 

 ――50年代に入ると、米軍は「銃剣とブルドーザー」によって、住民から強制的に土地を奪いました。

 本土が復興景気に沸いていた…

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