貴重な植物の危機 シカの食害に向き合う尾瀬

星井麻紀
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 【群馬】群馬、福島、新潟、栃木の4県に広がる尾瀬国立公園。貴重な植物の宝庫で、シカの食害との闘いが20年以上続いている。美しい自然は「観光資源」でもあり、国や県は対策を必死に練るが、厳しい状況が続いている。

 「足元に気をつけて。編み目が均等になるように、引っ張って下さい」

 一面の雪に覆われた5月半ばの尾瀬ケ原。尾瀬保護財団が募ったボランティアら約20人が、業者と一緒に山の鼻ビジターセンター近くにある研究見本園で、シカよけのネットを設置する作業をしていた。

 「雪の上での作業は大変だが、雪解け前に終わらせないと」と担当者。雪が苦手なシカが活動を始める前に、ネットを張る必要があるからだ。

 今回が2度目のボランティア参加という沼田市の堤康次さん(55)は、中学生のころから年に4回は尾瀬を訪ねる尾瀬ファン。「大切な尾瀬の自然保護につながる活動ができてうれしい」と話す一方、「以前はニッコウキスゲの時期には本当に一面が真っ黄色だったが、最近はピーク時でもまばらだ」と残念がった。

 研究見本園は、約12万6千平方メートルの広さに尾瀬の自然が凝縮したような風景が広がる。木道が整備され、1周30分ほどで池溏(ちとう)を回り、ミズバショウやニッコウキスゲなど季節の花を手軽に見ることができる人気スポットだ。

 だが、ここでもシカの食害は深刻だ。シカに食べられたミズバショウなどは栄養を蓄えられず、株が弱って花を付けなくなり、消失することもある。シカは土を掘り返し、周囲を踏み荒らして植物を傷つけ、地面を裸地化してしまう。

 群馬県は研究見本園のシカ対策として、2年前から周囲に高さ2メートルほどのパイプを立て、ネットを固定するシカ柵の設置を始めた。一昨年は約半分、昨年からは全体の約1・3キロを囲い、シカの侵入を防ぐ。まだモニタリング中だが、シカが泥浴びをするヌタ場がなくなるなど、一定の効果が確認されているという。

 県は研究見本園以外の背中アブリ(約625平方メートル)と、至仏山の登山道上にあるオヤマ沢田代(約4409平方メートル)でもネットを設置して植生保護を進める。だが、標高が高い所や登山道がない場所での維持管理は難しく、作業時の湿原への負荷も大きい。雪が多い尾瀬では、ネットの破損を防ぐために積雪前に撤収する作業が必要で、手間もかかる。

 「自然が自然の脅威となる時に、人間が尾瀬の自然を守ることができるなら、尾瀬の魅力をたくさんの人に伝えるためにも工夫していく必要がある」。尾瀬保護財団の石井年香・事務局長は、そう話す。

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 シカによる食害は全国的な問題となっている。

 尾瀬では1990年代半ば、長く確認されていなかったシカの存在が報告された。シカは栃木県奥日光・足尾地域へ移動して越冬し、春になるとえさを求めて尾瀬へやってくる。ダムや道路計画、観光客による湿原の踏み荒らしなど、尾瀬の自然は人間との闘いの歴史が続いてきたが、いまの相手はシカだ。

 環境省や地元自治体などは2000年から本格的な対策に乗り出している。現在は尾瀬の生態系へのシカの影響の排除を目標に掲げ、早急に植生の保護が必要な場所を中心に14カ所、総延長約10キロメートルのシカ柵(ネット)を設置。「尾瀬・日光国立公園ニホンジカ対策広域協議会」の資料によれば、20年は5200頭ほどを捕獲した。

 だが、尾瀬に入り込むシカは増えているようだ。

 群馬県が尾瀬ケ原南東の丸沼・一ノ瀬地域で行ったシカ移動ルート上での撮影調査によると、過去8年間で撮影頭数が7倍に増加。昨年度は5千頭近くいた。柵の内側では食害は減少傾向にあるが、燧ケ岳(2356メートル)の山頂直下、笠ケ岳(2057メートル)山頂付近など、標高が高くて柵の設置が難しい場所へと食害の範囲は広がる一方だ。

 尾瀬の自然を長期にわたり研究してきた宇都宮大学名誉教授の谷本丈夫さんによると、明治期にはすでに日光から尾瀬にシカが移動していたという。また、1960年代にはシカがミツガシワの葉を食べていたことを示す記録があるという。「当時も食害があったはずだが、それが今の食害が問題になる前の状態まで復元したと考えられる。今のミツガシワも自然に復元するかもしれない。そんな可能性を探るためにも、細かく記録を取り、長い時間軸で考えることが必要だろう」と指摘する。

 「尾瀬にシカが入り込むのは生活域を人間に追われたから」。谷本さんは、尾瀬での人間と自然のせめぎ合いは終わっていないと考える。「地球の大きな生態系の中で、シカも歯車としてかみ合っていると思う。どういう答えが一番いいのか、とても難しいが、尾瀬に関わる人みんなで考えて欲しい」と話した。(星井麻紀)