戦争の実相語り継ぐ 静岡空襲77年、「つどい」で体験者証言

床並浩一
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 約2千人もの命が奪われた静岡空襲から77年になる19日、犠牲者を追悼するつどいが静岡市内であった。ロシアによるウクライナ侵攻で国際平和の理念が揺らぐなか、参加者は市民が犠牲になる戦争の実相を語り継ぎ、恒久平和を希求する誓いを新たにしていた。

 静岡空襲は1945年6月18日の浜松空襲に続き、19日夜~20日にかけて起きた。軍需工場を抱える地方都市を標的にした米軍爆撃機B29による無差別爆撃で、一夜にして市街地を中心に焦土と化した。焼夷弾が直撃するなど約2千人が犠牲になり、空襲は敗戦までに旧静岡地区で15回、旧清水地区で11回を数えた。

 つどいは空襲関連の資料を収蔵する「静岡平和資料センター」を運営する「静岡平和資料館をつくる会」の主催で、空襲体験者ら約20人が参加。一人ひとりの犠牲者名が刻まれた名簿を前に黙禱(もくとう)を捧げた。

 つどいでは、当時5歳で家族と空襲を生き延びた市内在住の中村弘武さん(82)が証言に立ち、「逃げる人は血相を変え、押しつぶされそうだったが、足元は死んだ人ばかりで、前に進めなかった。クレーターのように陥没したところにおかっぱ頭の大勢の娘さんが寝間着で死んでいた」と生々しく振り返った。

 「空襲時だけでなく、戦後も市民の苦しみは続いた」と中村さん。「無条件降伏で戦争が終わったのに食べ物がない現実を突きつけられた。一家心中や自殺が相次いだ」と戦後の困窮ぶりについても触れた。

 「子どもたちを戦禍に巻き込みたくない」と、地元小中学校でも語り部活動を始めたという中村さん。閉会後、ウクライナ情勢も引き合いに「戦争をよそ事と考えてはいけない。一度起きたら、どうにもならなくなる。戦争は絶対に許されない」と話した。

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 つどいの会場にいつもの女性の姿はなかった。

 土居和江さん。春に急逝するまで事務局長を務め、つどいでは進行役だった。

 3月。つくる会のメンバーが静岡市内で開いた打ち合わせに藤枝市在住の土居さんは姿を見せなかった。「車を運転中に事故にあったかもしれない」。胸騒ぎを覚えたメンバーから連絡を受けた家族が自宅居間で息を引き取った土居さんを見つけた。75歳だった。

 岡山県出身。京大を卒業後、神戸市で社会科教員を務め、夫の転勤で静岡へ。島田学園高では島田空襲や「殺人光線」を研究した旧日本海軍施設の調査研究に生徒と奔走した。

 退職後につくる会の活動に本格的に参加した。事務局長に就任後、2015年の戦後70年の企画に着手。コロナ禍で迎えた戦後75年企画では、展示に代わる「オンラインミュージアム」を立ち上げた。つくる会の運営委員会が逝去後の3月10日付で発表したロシアに対する緊急抗議声明のとりまとめ役としても懸命だった。歴史を正確に伝える教育・研究者として、被害者の立場だけでなく、加害の面から空襲に至った歴史の経緯に向き合うことも忘れなかった。

 運営委員長として二人三脚で組織を運営してきた浅見幸也さん(84)は「調整役としていつも心を砕いていた」と振り返る。同じ社会科教員時代に勉強会で顔を合わせた間柄で亡くなる直前まで連絡を取り合っていただけに、突然の別れに言葉を失った。

 つくる会は5月、顧問に就く浅見さんの後任運営委員長兼代表代行に、初めて戦後生まれの田中文雄さん(74)を指名した。

 教員や美術館職員として活躍した田中さんに戦後70年企画で図録編纂(へんさん)を「手伝って」とスカウトしたのは土居さんだった。

 戦後80年企画が大仕事になる田中さんは「様々な思いから参加するメンバーとともに活動を次につなげることに努めたい」と話す。(床並浩一)