脳性まひのバイオリニスト 孤独の10代を越えパラ閉会式に立つまで
脳性まひで手足が不自由な25歳のバイオリニストが昨年、東京パラリンピック閉会式で演奏した。10代でいじめを受け、「孤独と闘ってきた」という彼の胸を、演奏後に満たした思いとは。
昨年9月5日の夜。東京・国立競技場の真ん中に立つ式町水晶(みずき)さんを、世界中の代表選手たちが見つめていた。東京パラリンピック閉会式のフィナーレだ。
ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」のピアノ演奏が流れた。ふっと息を吸い込むと、握った弓を弦の上で力強く滑らせていった――。
車いす生活 リハビリで始めた
北海道旭川市出身。3歳で脳性まひと診断された。小脳が通常の約半分の大きさで、手足にまひがある。長く歩くと筋肉がこわばるため、車いすで生活した。
リハビリのため、4歳でバイオリンを始めた。母の啓子さん(52)は出産直後に離婚し家計は苦しかったが、生後2カ月のころに埼玉県川口市で同居を始めた祖父母が支えてくれた。講師も楽器を貸してくれ、練習を続けることができた。
初めて弦を握ったときから音を出せた。1年足らずで、短い曲なら耳で聴いただけで弾けるようになった。祖母の勧めで老人ホームで慰問演奏をさせてもらうことになり、お年寄りから温かい声をかけられた。まだ5歳だった。
その年、川口市内でバイオリニストの葉加瀬太郎さんの演奏を聴いた。「情熱大陸」でおなじみのテーマを、身を乗り出して聴いた。啓子さんに宣言した。「僕、ああいうバイオリニストになりたい」
その頃、緑内障の疑いがあることがわかった。東京都町田市に引っ越し、最初は公立小学校の肢体不自由児学級や盲学校へ通った。「こんな体に産んでごめん」と思い悩む啓子さんには「大丈夫だよ、お母ちゃん!」と笑いかけた。
症状が落ち着いてきた5年生からは、公立小の普通学級へ。健常者の同級生との生活は初めてだった。ボタンの留め外しや靴ひものちょうちょ結びを、周りの子はすいすいとこなす。「自分以外の全員がウルトラマンのように見えた」
車いすには介助者がついて回り、同級生と並んで歩けない。周りとの隔たりが次第に大きくなった。
いじめ 一人で泣いた夜に
6年生でいじめの標的になった。
あらぬうわさを流され、クラ…