第1回半世紀の節目も「ただの1日さあ」 郷里の居間、記者が感じた違和感

有料会員記事沖縄・本土復帰50年

安田桂子
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 日曜の朝、居間のテレビは大リーグ大谷翔平選手の試合を映していた。父幾夫(69)はソファで新聞を広げながら、ちらちら目をやった。母ゆみ(69)は台所でコーヒーをいれ、リンゴをむき始めた。

 5月15日だったこの日、わたしのふるさと沖縄は本土復帰から50年を迎えた。

 沖縄と東京の会場を結び、知事や首相、天皇皇后両陛下が出席する復帰50周年記念式典が開かれることになっていた。

 わたしは復帰の10年後に那覇市で生まれた。「復帰」を意識したことはなかったが、半世紀の節目は大きなできごとだと感じていた。

 しばらく前から、テレビや新聞の復帰特集を丹念にチェックしていた両親は、どんな節目の一日を過ごすのか。食卓でたずねると、父は「特別なことはなんにもない。365日の、ただの一日さあ」と言って、皿のパンをほおばった。

沖縄が本土に復帰して、今年5月15日で50年を迎えました。復帰10年後に那覇市で生まれ育った記者が、地元にかえり、身近な人たちに話を聞きながら、本土復帰とはなんだったかを考えます。

 50年前、父は新潟大1年生だった。日本政府が学費を負担し、沖縄から本土の国立大へ進学する、いわゆる「留学生」のひとりだった。渡航証明書とドルを手に、1600キロ北へ向かった。

 沖縄は英語が公用語だと勘違いした人から「トマトの発音がさすがだね」と言われたこともあったというが、差別や偏見を感じることなく過ごしたらしい。本土と沖縄のいちばんの違いは「寒さ」だったという。

 母は大学進学をめざして勉強中だった。

 母の実家から歩いて10分ほどの那覇市民会館で、復帰記念式典は開かれた。日の丸が掲げられた壇上で、屋良朝苗(やらちょうびょう)知事は、こうあいさつした。

 《沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえないことも事実であります》

 《私どもにとって、これからもなおきびしさは続き、新しい困難に直面するかもしれません》

 本土復帰によって「基地のない平和の島」になることを求めた沖縄。式典会場の隣にある与儀(よぎ)公園では、望んだような復帰にならなかったことに抗議し、土砂降りの雨のなか約3万人が集まったとされる。

 日本にかえった日の、そうした街の空気を19歳の母はどう受けとめたのか。「それがさ、まるで記憶にないのよねえ」と笑った。

 思いがけない話がでたのは、そのあとだ。

 「国場君事件」「宮森小学校…

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